リビングストーン教会礼拝説教2016.10.2
主題:復活の預言

パウロは実に、神に律法を信じ、それを守ろうと最善を尽くしてきました。そういう点ではユダヤのファリサイ派と同じです。しかし、パウロがこの法廷において強調したのは、実に次の一点でした。 

使徒24:15更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。

この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。 パウロはダニエル書12章に出てくる復活の預言を引用しています。

ダニエル12:2多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。12:3目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。

前回もパウロはエルサレムでユダヤ人達から訴えられた時、パウロは復活に対する希望を語りました。それで、ユダヤ人のファリサイ派と、復活を信じないサドカイ派の間で分裂と論争が起きたことを私達は覚えています。祭司長たちは訴えました。パウロは律法を破った、神殿を汚した。つまり、パウロが何をしたのか?という点において告発して、罪に定めようとしています。しかし、パウロの弁明は違いました。パウロの弁明は、私は悪いことをしていない、私は正しいことをした、というものではありません。私は復活に対する希望を抱いている、というものです。だからこそ、パウロの弁明の結論はこうです。 

使徒24:20さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。24:21彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。 

パウロの訴えはシンプルです。彼の確信は、律法を守るか、破るかではありませんでした。神殿を清めたか、汚したかではありませんでした。ルールを守るか、破るかではありません。私達も考えるべきことは、多くの人々は宗教をこのように考えるのではないでしょうか?神の掟を守るか、守らないかで判断しようとします。その信仰生活が見掛け上、清いか、汚れているかで判断しようとします。 主に中東やインドの地域では、今も『名誉殺人』という習慣が残っています。それはイスラムやヒンズーの宗教または地域の慣習から出たものですが、自分の家族の中で娘さんなど、女性が男性と不適切な関係を持った場合、それは家族の名誉が汚されたことだから、家族の名誉を守る為に、家族内でその女性を殺すことが許される、というものです。その理由は、家族の名誉を汚したからです。その慣習、その宗教の掟を破ったからです。ユダヤ人の指導者たちは、クリスチャン達のことを『ナザレ人の分派』と呼びました。別の翻訳を見ると、異端とまで書いてあります。クリスチャン達が、日曜日にキリストを礼拝するのを見て、安息日を破っているように見えました。彼らが異邦人と共に神を礼拝するのを見て、律法を破っているように見えました。彼らの目から見ると、クリスチャンは、イスラエルの神を信じていると言いながら、その生き方が何か違うように思えたでしょう。 逆説的に言うならば、クリスチャンが信じている福音が、そういうものであるということです。ユダヤ人達は、神の掟、律法を守ることを通して、神の前に進み出ようとします。しかし、クリスチャンはそうではありません。自分たちが神の掟、律法を守れない罪人であることを告白し、そのような罪人の私達の代わりに、完全に律法を守って下さり、私達の罪をも背負って十字架で死んで下さり、復活して下さったイエス様を日々信頼することを通して生きるのです。そして、イエスが復活したように、私達もまた、罪深い体は死に、罪を犯さない完全な体で復活するという約束を信じて、希望を持って生きているのです。私達クリスチャンは、そのような救い主キリストと、神の救いに対する信仰と希望を持つことを通して、救われていると信じます。 ユダヤ教は神の律法を守るか、守らないかであるのに対して、福音は、神の約束、希望の約束を信じるか、信じないかにかかっています。パウロの語る、神の救いは、律法の実践によって来るのではなく、神の約束に対する信仰を通してくるからである。 私達の信仰生活はどうでしょうか?私達は神の律法を守ることにより生きているか、神の律法を守られたイエスに対する信仰により生きているか、どちらだろうか?律法を守って生きているかが人生の中心か、律法を守り通したイエスを信頼して生きて、その救い主を愛して生きているか、どちらだろうか?律法、行い、義務、責任により生きるか。信仰、愛、喜び、感謝により生きるか。

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