高田馬場リビングストーン教会礼拝説教
主題:真の神との出会い

私達も人生において、このような驚きはあったでしょうか?パウロの回心の出来事において、驚くべきことは、天から光が輝いて、イエスが現れて天から言葉を語ったとか、それでパウロの目が見えなくなったとか、そういう神秘的なことが大切ではありません。そのような神秘的な方法でイエスを信じた人がどれほどいたでしょうか?おそらくここには一人もいないと思います。しかし、全てのクリスチャンにおいて、パウロと同様に言えることは、自分の人生、自分の歩みは、神に真っ向から反対する方向であったと気づいたということです。ある時、ある瞬間、それを悟ったということです。パウロは一生懸命神を愛していたように思えて、実は神を迫害していました。私達はクリスチャンになる前、熱心に神を愛し、神に仕えていたわけではありません。しかし、私達もまた、神から遠く離れて神に逆らう人生を送っていたことに気付いたのです。もちろん、神についてなど真剣に考えたことはなかったでしょう。日常の生活、大学生活や会社生活、アルバイトや趣味の生活の中で生きていたでしょう。しかしある時、聖書を読みながら、自分は神から遠く離れた人生を生きている。自分は神に逆らっている。自分はいち早く神に立ち返らなければならない。自分は神と和解しなければならない。自分はこのままでは罪の中で滅びの道に向かっている。そう思える瞬間があったはずです。その中で、パウロが回心したように、私達もまた、回心を経験するのです。
(私個人の証し)
イエスは誰であるかということを知ることが、私たちの生活に日々、大きなインパクトを与えることを願います。それはイエス様を信じた最初の時だけではありません。私たちが天に召されるその時まで、イエスが神の子、救い主であるということが日々インパクトを与えてほしいと願います。
『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』
これは、イエスが主なる神であるということを意味しているだけではありません。パウロはそんな主なる神の子イエスを迫害していたということを意味しています。それはパウロだけのことではありません。パウロだけが、積極的に、あからさまに神に敵対し、神と神を信じる者を迫害していたというだけではありません。私達もまた、パウロと全く同じように、積極的に、あからさまに神に敵対し、神に反逆していた存在だということを意味しています。もし、イエス様が私たちの前にパウロと同じように表れたとするならば、主はどのように自らのことを話したでしょうか?たぶん、「わたしは、あなたが十字架につけて殺したナザレのイエスである」という風に自己紹介したかもしれません。パウロの迫害は彼独特のユニークなものではありません。それは全ての人間一人一人です。パウロだけがあらゆる人々に勝って神にそむいていたのではなく、私達もパウロと全く同じように神に敵対していたということです。だからこそ、パウロはローマ5:8において、
5:8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。


私達は、真の神と出会うならば、自分の人生を根本的に、変えなければならない。自分は今のままでは決していられないという思いがまるで、ハンマーで打たれるようにインパクトを与えてくるものです。そのような経験が今まであったでしょうか?これは本当に人生で大切な経験です。

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