リビングストーン教会礼拝説教
主題:主よ、あなたはどなたですか?


22:1からは、パウロの弁明の内容が語られています。
22:1「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いて下さい。」2パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。3「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。4わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。5このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」
ここで強調されているのは、自分はユダヤ人たちと何も違わないということです。私は生まれながらのユダヤ人です。そして熱烈なユダヤ教徒です。皆さんと同じように、クリスチャン迫害をしていたものです。これは初めてパウロのことを知るユダヤ人にとっては驚きだったでしょう。私達もそうですが、ある人がクリスチャンであるという時に、まるで生まれた時からそうであるかのようによく考えるものです。最初からイエス様を熱烈に信じて、最初からイエス様を伝えようとしていたと思うでしょう。私はどうですか?ここにはイエス様を信じる人も、信じない人もいますが、私はキリスト教がかつて大嫌いでした。
(自分の話)これはインパクトがあると思います。
私もかつてノンクリスチャンであった。私もかつてはキリストを信じられなかった。聖書なんてなんのことか何も分からなかった。しかし、なぜ今、信じているのか、なぜ今、キリストを伝えているのか?どのように信じたのか、それを弁明することがクリスチャンの責任であり、特権であり、喜びです。
人間にとって、大切な人との出会いを語ることは嫌いではないでしょう。世の中でも夫婦にインタビューする時に、『二人はどのように出会い、知り合い、互いに愛し合うようになりましたか?』と話すでしょう。それを嫌がる人はいないと思います、むしろ喜びではないでしょうか?同じように、私達を愛して下さるイエス様との出会いを語ることは喜びであって苦痛ではありません。
イエス様との出会いは、決して劇的である必要はありません。大切なことは二つです。
『主よ、あなたはどなたですか』
それはつまり、イエスが誰であるかということです。パウロの発言は不思議に思えます。天から光の中で語られた言葉は、パウロは確かに主なる神のものであることが分りました。だからこそ、「主よ」と問いかけているのです。パウロは主の声を聞いて何を期待したでしょうか?「おお、パウロよ、私のために一生懸命頑張っているな。よく、神を冒涜するイエス・キリストと、キリストを信じる人々を迫害しているな。あなたを励ますよ、応援していますよ。」とでも期待したでしょうか?しかし、主が次に語られる言葉は驚くべきものでした。
『私は、あなたが迫害しているイエスである。』これは、驚くべき言葉でした。
パウロがしている事は完全に間違っているという神の宣言です。パウロは、クリスチャンを迫害することが神に喜ばれることだと思っていました。なぜなら、キリストはユダヤの宗教指導者たちに立ち向かい、反発し、何より30歳の若者にも関わらず、自分とイスラエルの神は一つであると冒涜的な言葉を宣言したからです。パウロにとって、イエスの死は当然のように思えたでしょう。そこで今日、ダマスコでパウロが聞いた言葉は、クリスチャンと教会を迫害することは、キリストを迫害することだということ。そして、更にはキリストを迫害することが、パウロが信じる神を迫害することであるということです。これほど、パウロにとって衝撃的なことは人生においてなかったでしょう。パウロの人生は驚きの連続であったはずです。信じられないような出来事に数々直面したでしょう。しかし、自分が神のために熱心に仕えようとして、神を喜ばせようとして熱心にしていたことそのものが、神を迫害することであったということを知った時のパウロの驚きはどれほどだったでしょうか?

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