高田馬場リビングストーン教会木曜礼拝
主題:奉仕のために召されて


6.いずれ飲む「イエスの杯」と「受ける洗礼」
39彼らが「できます」というと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが受ける盃を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。

イエス様は、来るべき十字架の苦難を理解できない弟子たちの「イエスの杯を飲み、イエスの洗礼を受けることができる」という発言に対して、『あなた方にはできない』とは言いませんでした。むしろ、「確かに、あなたがたはわたしが受ける盃を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」とまで言いました。私達はイエスが成し遂げられた業を行うことができるのでしょうか?それは、神の僕としてへりくだり、仕える者になることです。イエス様のように、貧しい人々を豊かにするために、自らの豊かさを放棄することです。それはどのようにして可能でしょうか?人間の努力や決断、精神力によってできるものではありません。それは、私達が、私達のために貧しくなられたイエス様との交わりを通して豊かになり、私達のために奴隷になられたイエス様との交わりの中で、神の子としての愛、喜び、平安を回復させていく中で可能になるということです。誰でも受けたことのない者は隣人に与えられないように、私達が日々、貧しくなられたイエスの豊かさを分け与えて頂き、僕として低くなられたイエス様の気高い品性を分けて頂き、聖霊の力により日々、イエス様の似姿へと変えられていくならば、私達もまた、主のように仕え、主のように分け与える者に変えられていくことができます。

7.私達クリスチャンは『奉仕』のために召されている
救われた私達クリスチャンにとって、『奉仕』は特権であり、喜びです。それは、天地創造された三位一体の神様の創造の働き、エデンの園を管理され、耕されたアダムとエバの働き、弟子たちの足を洗われたイエス様の働き、涙を流しながら人々を忍耐強く教え続けた使徒たちの奉仕の業を受け継ぐことを意味します。クリスチャンのすべての人生は奉仕の人生です。宣教は人々を教会に連れてくること、4つの法則を伝えることではありません。宣教は人々に仕えることです。礼拝は神に仕える垂直な奉仕だとするならば、宣教(霊的に失われた人々に仕える)、救済(経済的に失われた人々に仕える)、交わり(救われた神の家族に仕える)は水平的な奉仕です。そして、それぞれの職場生活、会社生活は、都市という不完全で、神の国へと変革されるべき共同体に仕える奉仕です。家庭生活もまた、創世記2章で示された愛の共同体を発展させ、完成させるために奉仕することです。神の国は、救われたクリスチャンが、日々、イエス様が示されたへりくだりの仕える僕の働き(救いの業)を日々味わい、霊的な豊かさとイエス様だけが持っておられる神の子としての品性に預かり、神の恵みを頂きながら、日々、私達もまた奉仕する者になり、失われた人々に仕え(宣教)、貧しい人々に仕え(救済)、兄弟姉妹に愛と励まし、祈りをもって仕え(交わり)、神の国になるべき共同体に仕える(職場生活)ことを通して、神の国が奉仕により広がることを願います。

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