高田馬場リビングストーン教会礼拝説教
主題:逆さまの王国


3.『逆さまにされた王国』

イエス様が示された『神の国』は「逆さまの王国」(Upside-down Kingdom)である。それはこの世の王が治める国家とはまるで正反対の姿である。この世は多くの王や権力者が、栄光を自分のものにするために、国民を抑圧し、圧迫する国家である。世の王は、仕えることではく、仕えられることを願う。それは仕えられる事を通して、権力者の地位や名誉が高められると考えるからである。しかし、イエス様の示された『逆さまの王国』の姿はまるで違うものであった。それは、仕えられるのでなく、謙遜に仕えることを通して、真の王の姿がどのようなものであるかを示されたことであった。それは、常に愛する者のために仕え、奉仕する王様の姿である。

その愛の奉仕は、この世の初めからあった。それは天地創造の時から始まった。天地創造と動植物、ついには人間の創造は、神の奉仕の業である。人間が最高に満足するためのエデンの園の創造は神の奉仕であった。このようにして、神の奉仕を通して世界が創造された。神に創造された人間の使命は、この世のすべての被造物を良く治めることであった。それは、世に仕え、世を創造的に活かすことである。そのすべての力と知恵の源は、父なる神の内にあった。しかし、最初のアダムは罪の誘惑に負け、『神のように』なろうとした。それは、神の栄光を盗むことであり、仕えられる者になることであり、自らを神の前で高めることであった。それはこの世の王のようになることであり、仕える者であることを放棄することであった。結果として神と人間との関係は切れた。

この世界で、よき管理者、よき僕として仕えることがアダムとエバの役割であったのに、この世の支配者になろうとした。結果として自然環境は人に逆らうものになった。夫婦が愛と従順によって仕え合う関係は、支配と被支配の関係に転落した。最初の共同体の夫婦関係がそうなったので、全ての世の共同体の関係は、支配と被支配の関係に転落した。そこは力あるものがないものを一方的に支配する関係である。

 

イエス様は、そうのようなこの世の王国をひっくり返し、真の『神の国』を世に示すために来られた。イエス様は説教で、近づいた『神の国』について語られた。神の国の意味はギリシャ語で、バシレイア(神の統治)という。神がこの世を治める姿が神の国である。そして、神の国の実現はイエス様そのものである。イエス様が人々に何をしたのか、どのような関係を築いたのかということが、『神の国』の姿が何なのかを十分に示している。それは、へりくだる僕の姿である。

 

4.僕として、最下層の奴隷としてへりくだられたイエス

それはヨハネの福音書13章で示された、弟子たちの足を洗う僕となられたイエス様の姿である。

ヨハネ13:4食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。13:5それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。13:6シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。

 

毎日の生活が砂だらけの乾燥地帯をサンダル履きで歩くユダヤの慣習では、基本的に汚れた自分の足は自分で洗うものである。もし召使がいる家庭なら、召使が家の者の足を洗うのだが、もしその家庭にユダヤ人の奴隷の他に異邦人の奴隷がいるならば、ユダヤ人の奴隷は『主人の足を洗うことから免除される』のが通例であった。つまり、家の者の足を洗う奉仕は、奴隷の中でも最下層である、選ばれた民ではない、救われるべき民ではない、『異邦人の奴隷』に相応しい仕事であった。ここで書かれた『しもべ(奴隷)』は、ギリシャ語で『δοῦλοςデューロス)』といい、奴隷の中でももっとも低い地位にいる者のことを言います。人間に与えられた当然の権利を、他の人々に仕えるために放棄した人のことです。イエス様は、私達のような「罪の奴隷」をご自身のような「神の子」へと高めるために、自らを低くされました。イエス様は私達のような「霊的に貧しい」「世の中の貧しさ」の中に生きる存在を、「神の国の豊かさ」を享受するものにするために、自らを貧しくされ、自らを霊的に断絶された罪人となさいました。それは、全て自らが奴隷になることを通して、罪の奴隷状態、霊的な貧しさに苦しむ私達に、豊かさと神の国の栄光を分け与える為でありました。

第二コリント8:9あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

 

私達は、自らが仕える者として生きようと決心する前に、主が私達のために仕えて下さったこと、今も仕えておられること、神の国の栄光に預かり、完全にイエス様と同じ姿に変えられるまで(栄化)、仕え続けて下さる方であることを心に刻まなければなりません。そのような常に仕えて下さる主の恵みを味わい、喜び、感謝する時にこそ、私達一人一人に、神に仕え、隣人に仕える霊的な恵みと力が与えられます。それなくして、私達の精神力や決断力、人間的能力の中には、神に仕え、人に仕え続けるための霊的な力は私達の中にはありません。それらは主の恵みを味わい続けることを通して日々成長し、豊かになるものです。

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