リビングストーン教会木曜礼拝2016.8.18
主題:奉仕するために来られた方

聖書本文:マルコによる福音書10章32節~45節 

1.再び十字架の苦難の予告


主イエスの受けるべき、苦難が32-34節で再び予告されている。弟子たちはエルサレムに向かおうとするイエスを見て驚き、恐れた。なぜなら、そこにはイエス様を殺そうと計画するユダヤ人の指導者たちが集まっているからである。 32一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。(参考:使徒21章)イエスは再び12人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。33「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」 そのような主の偉大な苦しみの時が近づいているにも関わらず、弟子たちはそれを理解できずに、自分たちのことばかりを考えていた。 35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む盃を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」39彼らが「できます」というと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが受ける盃を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。 弟子たちは、イエスが栄光を受けようとしていることを知っていた。しかし、それはエルサレムでユダヤの王として即位する意味での栄光であり、危険があるにも関わらず、イエスがエルサレムに向かうのは、いよいよそこでユダヤの王として君臨し、イスラエルを統治すると考えたかもしれない。その時に、忠実に従って来たヤコブとヨハネは、一体どの地位にまで高められるのか、どんな高位の役職を任されるのだろうかと内心期待していたのである。 

2.「世の国の栄光」と「神の国の栄光」


弟子たちは何ができると思ったのだろうか?イエスが言われる「わたしの飲む杯」「わたしの受ける洗礼」と言われた時に、それは新しいユダヤの王としてイスラエルを治めるイエスを助けるための過酷な大臣の職務だと思ったかもしれない。事実、それは間違いであり、イエスは王になるためにエルサレムに行くのではなかった。全ての人の僕として、多くの人の身代金として自分の命を捧げるためにエルサレムに向かうのである。 このように、弟子たちはイエス様の思いも、使命も何もわからない愚か者でした。しかし、イエス様はまさに、そのような弟子たちのためにエルサレムに向かわれた。また、弟子たちの愚かさは、私達の愚かさである。私達はイエス様の十字架の苦難の意味も分からず、僕としてこられた謙遜さも理解せず、自分が受けるべき栄光のことばかりを考えている存在である。それは富であったり、名誉や権力、人々の称賛であるかもしれない。そういう偽りの栄光を求めている私達のために、真の神の栄光は何であるかを示されるためにも、イエス様はエルサレムに向かわれた。そして、真の栄光はどのようにして現れるかを、主は十字架と復活の救いの業を通して実際に目に見える形で表された。 ヨハネ1:14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその『栄光』を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネ1:17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 ここで、弟子たちが考えていた『栄光(イエスの王座の右か左に座ること)』とは、まさに世の中の王や権力者が行使する『世の王国の栄光』であった。しかし、イエス様はこの世の王や権力者の示す「偽りの栄光」ではなく、真の王、救い主の示す『神の国の栄光』が何であるかを弟子たちに示そうとされた。それが、仕える者としてへりくだり、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たイエス様のことである。 41ほかの十人の、イエスを一堂に呼び寄せて言われた。「あなた方も知っているように、異邦人の間では支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力をふるっている。43しかし、あなたがたの間で、そうではない。あなたがたの間で偉くなりたいものは、皆に仕える者になり、44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45人の子は仕えられるためではなくて、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。

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