リビングストーン教会礼拝説教
主題:教会の生命のため

教会の生命のために

パウロのこの願いは、異邦人の教会とユダヤ人の教会とが仲良く協力してやっていった方がよい、というだけのことではありません。むしろ彼はそこに、どちらの教会にとっても、その生命に関わる問題があると見ているのです。異邦人の教会は、ユダヤ人の教会との関係をしっかり持つことによって、旧約聖書に語られているイスラエルの神の民としての歴史とつながる必要があるのです。そうでないと、異邦人の教会は、神様がイスラエルの民を選び、そこにおいてなしてこられた救いのみ業との関係を失った、根無し草になってしまいます。教会は、旧約のイスラエルの民との連続性を持たなければ、新しいイスラエルとして神様の救いの歴史を担うことはできないのです。他方ユダヤ人の教会も、異邦人の教会との関係を必要としています。異邦人に心を閉ざし、ユダヤ人だけの教会になってしまうなら、彼らは、神様が主イエス・キリストにおいて成し遂げて下さった新しい救いのみ業に生きる者ではなくなり、キリストにおける新しいイスラエルでなくなってしまうのです。つまりキリスト教会ではなくてユダヤ教の一派に留まってしまうのです。このように、異邦人の教会にとっても、ユダヤ人の教会にとっても、お互いに相手との関係をしっかり持って共に歩むことによってこそ、神様の民としての生命を正しく保っていくことができるのです。つまりこれは、仲良くした方がいい、というような問題ではなくて、教会が教会として生き続けることができるかどうかがかかっている、生きるか死ぬかの問題なのです。それゆえにパウロは、このことのために命を捧げようとしているのです。異邦人の信者たちからの献金を自らの手でエルサレム教会に届け、手渡す、それによって異邦人の教会とユダヤ人の教会の一致、交わりを確立するためには、自分が死ぬことがあってもよい、と覚悟しているのです。
キリストの体である教会の一致という使命

信仰者の交わり

このパウロの覚悟から私たちは、信仰者が共に生きること、その交わりの大切な意味を教えられます。私たちは、信仰者どうしの交わりが大切だと口ではいいます。しかしそこで私たちが思っていることは、一人では不安、仲間がいて、助け合って共に歩んだ方が心強い、ぐらいのことではないでしょうか?
しかしここに示されているパウロの覚悟から教えられるのは、信仰者の交わり、特に自分とは違う思いを持っている人との交わりが、私たちの信仰の生命を保つために欠かせないものであるということです。そのような交わりの中でこそ、私たちは、自分の狭い、独善的な思いを打ち砕かれて、謙遜に御心に従う者へと作り変えられていきます。交わりは、ただ自分の弱さを補うためではなくて、神様のみ心を本当に求める者へ作り変えられていくことです。

関連リンク

・更にメッセージが読みたい方はこちら
・リビングストーン教会について知りたい方はこちら