高田馬場リビングストーン教会礼拝説教2016.7.28

主題 神の国を受け入れる、イエスを受け入れる

大人達は子供がイエスに触れることだけを願ったのに、(それ位がせめて子供たちが受ける最低限の祝福と考えた)、イエス様は抱き上げて、手を置いて、祝福までされた。常にイエス様のなさる祝福は私達の期待を超えたものである。子供達はせめて触れられれば良いと考えられたが、イエスは彼らを抱き上げ、手を置き、按手した。ルカ15章の放蕩息子はせめて、雇い人の一人になれれば良いと考えたが、彼は予想外に愛された子供として受け入れられ、祝宴が開かれた。私達は罪人であったにも関わらず、主イエス様が私達の為に死んでくださることを通して神の愛が示され、神の子とされた。神の恵みと愛はいつも私達の思う以上に注がれている。 私達が子供のような純粋な信仰者になることを通して神の国に入るのではない。私達は、人間の目から見るならば、イエス様に近づくことは叱られるべき罪人である。人間の目から見たら、主に触れることも、主の祝福を受けることさえも失礼な罪人である。しかし、イエスは弟子たちに子供たちを妨げてはならないと言われました。そして、子供のように神の国を受け入れる者こそが、神の国に入れると教えられました。この時に神の国はどこにあっただろうか?まさに神の国は『そこに』ありました。イエス・キリストこそが来るべき神の国であり、近づいて来た神の国の姿でした。子供たちはイエスを受け入れました。子供として、子供のように神の国(イエス様)を受け入れ、祝福を頂きました。しかし、それはむしろイエス様こそが来るべき神の国として、子供たちを抱き上げ、手を置いて、祝福されたのである。 私達がクリスチャンになった時、そしてクリスチャンになった今もなお、私達がイエスを、神の国を受け入れたのではなく、神の国の完成であるイエス様が私達のような、罪にまみれた、自己中心的な子供を、受け入れて下さり、神の子として下さったのである。子供は決して純粋な存在ではない、それは無力であり、自己中心であり、役に立たない存在である。イエスはそのような子供を受け入れて祝福された。同じように、罪だらけで、自己中心な私達を、イエス様はただ『信仰によって』受けいれて下さり、神の子として下さり、滅びの子ではなく、神の子としての新しい品性を与えて、私達を日々造り変えて下さるお方であることに感謝しよう。

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