リビングストーン教会木曜礼拝2016.7.28

聖書本文:マルコによる福音書10章1節~16節 結婚の意味と、申命記の『離婚するための条件』ファリサイ派の離縁に対する質問に対して、10章3節で、イエス様はモーセの律法はどのように語っているかと質問しました。 10:3イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。10:4彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 それは申命記24章1節に書かれています。 申命記 24:1人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。 申命記の掟が、「妻の不品行」が理由で夫から捨てられることだけに言及しているのは不思議ではないだろうか?夫の不品行こそがもっと一般的ではないだろうか?しかし、旧約聖書は常に「妻の夫に対する不品行、不倫行為」に言及しながら、それこそが妻が夫から捨てられるべき理由について言及している。それは、単なる人間の男女関係だけではなく、神(キリスト)と神の民との関係に対して言及している。事実、イスラエルの歴史は、救い主である神にたいする反逆と不信仰の歴史である。それは旧約聖書を通して、霊的な姦淫、不品行だとされている。イスラエルの神こそが、愛すべき夫でありながら、イスラエルの民はたびたび異国の神に心を奪われて偶像崇拝した。それこそが、本来ならばイスラエルが主なる神から離縁状を突き付けられて捨てられても仕方ない理由である。このようにして、申命記24章1節は、男女の関係が不品行により汚されてはならないという結婚で保たれるべき『純潔』について言及するだけでなく、神とイスラエルの民との関係が異国の神との偶像崇拝で汚されてはならないという『霊的な純潔』にまで言及している。モーセの律法で男女の関係が不品行で汚されるならば、妻は夫から捨てられても仕方がないように、イスラエルの民もまた、霊的な不品行で神から捨てられても仕方がない存在であることを暗示している。しかし、主はそうされなかった。 申命記24章1節が示す『イスラエルの民の心の頑なさ』とそ結婚の本来の姿 10:5イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。 このことは、言うなれば旧約聖書は全てが神の本来の御心ではないということを示している。それは積極的な神の勧めというより、罪深い、心が頑ななイスラエルの民に対する仕方のない罪への対処方法であった。それは一夫多妻に対する戒めでもあり、奴隷に対する戒めでもあった。それは神の願いではなく、民の心の頑なさに対する不完全な処置である。それは子羊の犠牲が神の民として生きる為には実は不完全な対処であり、日毎に捧げなければならないこと、完全な小羊の犠牲を待ち望まなければならない事を示すのと同様である。(説教:小倉隆志牧師)

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