リビングストーン教会礼拝説教2016.6.12


聖書本文 使徒言行録17:1〜15
主題 全ての聖書はキリストを指し示す

もし、私達が旧約聖書で示された『救い主、メシアに関する情報』抜きに考えてしまうならば、私たちに伝えられて信じて来た「福音」があまりにも「個人的な救い」になってしまうものです。福音はもちろん、子供でも理解できるものです。しかし、それは決して浅くて薄っぺらいものではありません。
もちろん、「神は私達を愛していますーしかし人間は罪を犯しましたーキリストが私達の罪の身代わりに十字架で死に、復活しました-そのイエスを信じれば救われます」というのは、その通り正しいものです。しかし、もし私達が信じる福音が、それだけで説明しきれるならば、旧約聖書で語られ、初代教会の人々が語り続けた「イスラエルのストーリー」は必要なくなり、イスラエルのストーリーに基づいた「イエスがキリスト」であるとする初代教会の福音理解とは異なるものとなってしまいます。
私も映画が好きなので、色々な映画を見ますが、映画の優れている点は、物語を通して私達にメッセージを語りかけてくるというところです。ストーリーの結論だけ言うならば、つまらなく感じるかもしれません。しかし、物語に起承転結があり、人々の葛藤や悩みがあり、挫折や失敗がありながらも、最終的にハッピーエンディングへ導かれる時に、私達の心に感動や、喜びが湧いてきます。
神は同じようにして、イスラエルの歴史という物語を通して、救い主に対するメッセージを語っています。それはただ預言者たちの3百位の預言が、キリストの誕生、成長、死と復活について語っているだけでなく、イスラエルの歴史にあらわれる代表的な人物が、待ち望むべき救い主、メシアに対するイメージと期待感を与えているのです。
弟子たちがイエスを「メシア」(すなわち「キリスト」)であることを悟り、確信できたのは聖霊による照明があったからです。復活されたイエスはエマオの途上の弟子たちに近づいて、キリストは栄光を受ける前に苦しみを受けるということを、モーセおよびすべての預言者から始めて、旧約聖書全体の中でそのことを説き明かされました。聞いていた二人の弟子たちこのとき「心が燃える」のを感じていました。そのあとに彼らは目が開かれ、「イエスこそキリスト」なのだということを悟るようになったのです。
使徒パウロはコリント人への手紙第一15章3節で「福音」についてのべています。そこでは最も大切な事として「イエスがキリストである」という前提で語っています。使徒たちの語る福音は、イエスのストーリー(イエスの全生涯の事実)が、イスラエルのストーリーの成就であるという良き知らせだったということです。「キリスト」ということばそのものが、実はイスラエルの歴史を背景とした語彙なのです。このようにして、パウロは旧約聖書を引用しながらキリストに対して論じ合いました。私達は、キリストがどのように生まれて、何を語り何をして、そして弟子達がどのように変えられ、世界がどのように変化したのかという新約聖書も勿論重んじながら、初代教会の人々がそれを通して救い主を示された旧約聖書、同じく神の御言葉を心から重んじて、研究し、それを通して私達はキリストの品性に対して、キリストの救い主としての業について、理解を深める私達になる事を願います。再来週からのエファタウィークも、旧約聖書の預言書を学びますが、それを通して、預言者が待ち望んだキリストについてますます知って行く私達になりましょう。
5節からは、そのようにしてテサロニケで救い主イエス様に出会った人々とパウロたちが受けたこの世の反発について語ります。

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