高田馬場リビングストーン教会礼拝説教2016.7.17

聖書本文 使徒言行録19:1〜20

主題 悔い改めの洗礼


1節~5節はそのような内容です。

使徒 19:1アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、19:2彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。19:3パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。19:4そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」19:5人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。

アポロがエフェソでキリストについて教えました。しかし、それは不十分でイエスの名による洗礼については語られていませんでした。プリスキらとアキラは彼にイエスの洗礼について教えました。しかし、エフェソには未だにヨハネの洗礼しか知らない人々が数多くいたことを聖書は語っています。それが2-3節の内容です。

ここでいうヨハネの洗礼とは何でしょうか?それは洗礼者ヨハネがその働きを始めた時に、授けていた洗礼です。それは、悔い改めの洗礼でした。

マルコ1:4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。1:5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

洗礼者ヨハネは来るべき救い主、イエスについて述べ伝えました。キリストこそが、全ての旧約聖書の預言を完成させ、人類の救いを完成されるただ一人のお方です。そのイエス・キリストに対する信仰を通してこそ、全ての人類は神の民となり、神の国に入ることができるのです。しかし、ヨハネが御言葉を伝えたユダヤ民族は、誤解をしていました。罪を悔い改め、来るべき救い主イエスを信じることにより、神の民となるのではなくて、ユダヤ民族として生まれたという血筋により、彼らは生まれながらにして神の民だと思っていました。彼らはアブラハムの子孫であり、祝福の源として選ばれたアブラハムの子孫です。当然、自分たちは選ばれた神の民であり、異邦人たちは神に捨てられた民族であると思いました。しかし、神の御心はそうではありませんでした。ヨハネはユダヤ人の律法学者たちに対して、蝮の子らよ、神の国に入れると思うのか。悔い改めにふさわしい実を結べと叫びました。洗礼者ヨハネのメッセージはそういう意味で、驚くべきメッセージでした。すべてのユダヤ人が、その血筋により、生まれながらにして神の民であると思っていたのに、ヨハネはそうではないと言いました。むしろ律法学者たちは、自らがユダヤ人の血筋として生まれたこと、更にはモーセの律法を守り行うことを通して、神の民であることを確信していました。そこには悔い改めも、罪の許しを求める信仰もありませんでした。ヨハネのメッセージは、既に救われていると思っている人々に、そうではないと宣言する驚くべきものでした。しかし、ヨハネのメッセージを通して、ある人々は自らの罪を認めました。そして、神から離れていたこと、罪を犯して生きていたことを悔い改めて、救い主キリストがこれから来て、水ではなく、聖霊の力により、新しい神の民として、神の子として生まれ変わらせて下さることを期待して、悔い改めの洗礼を受けたのです。つまりヨハネの洗礼は、キリストと結ばれる為の準備段階でありました。悔い改めは、自らが罪を犯して神から離れていたことを告白することです。罪と自己中心から離れて、神に立ち返ることです。ヨハネはそのように悔い改めた人々に水の洗礼を授けました。しかし、罪から離れて神に向かう時に、どこに向かうべきでしょうか?キリストにこそ向かうべきです。キリストこそ神だからです。だからヨハネの洗礼は半分だけの完成でした。自らの罪から離れて、その罪を許し、完全に清めて下さるキリストを信頼することで救われるのです。悔い改めだけで救われるものではありません。自らの罪に対する悔い改めと、救い主イエスに対する信仰を通して救われるのです。そして、ヨハネの洗礼は、イエスの名による洗礼を通して完成されるのです。