パウロか、バルナバか

東京リビングストーン教会主日礼拝2016.5.29

聖書本文:使徒言行録16:8-15、フィリピ1:3-6

主題:パウロか、バルナバか

パウロのフィリピに向かう決断は素晴らしいものでした、しかし、それは彼の決断ではなく主の導きでありました。

パウロは本来自己主張が強い人でした。その自己主張の強さゆえに、バルナバと喧嘩別れしたことを私達は知っています。パウロは第一次宣教旅行でドロップアウトしたマルコを連れていきたくありませんでした。途中で挫折したマルコを連れていくのは宣教の邪魔になるからです。パウロは情熱的な宣教師です。彼は最高の宣教旅行を実行することを通して主に栄光を現わしたいと思ったかもしれません。バルナバはそうではありませんでした。彼は一度挫折したマルコをもう一度立ちあがらせることを通して主に栄光を現わしたいと思いました。

2人の考えは衝突して、結果として別れました。

そんな別れの後、パウロは第二次宣教旅行は小アジアに向かおうとしました。しかし、その願いは聖霊様により砕かれました。彼はバルナバと意見が合わない時に、自分の考えを折ることはできませんでした。しかし、聖霊様の導きと自分の意見が合わない時には、彼は自分の考えを折らざるを得ませんでした。

パウロはバルナバと考えが合わずに喧嘩別れしました。同じように聖霊様と意見が合わずに、聖霊と別れるわけにはいかなかったのです。彼は自分の考えを退けました。そして聖霊の導きに従い、フィリピにやって来たのです。パウロがフィリピを訪れたことは意味あることでした。それは彼が聖霊に導かれてヨーロッパに宣教に来たということだけではありません。あれほど自己主張が強いパウロが、自らの意見を退けて、聖霊の導きに従ってフィリピを訪れたということです。

ここには主の御心が何であるのかという一つの答えを現わしています。まず、宣教は人間のパフォーマンスによるものではありません。私達人間が何をするのか、何を計画するのかということで結果が出るわけではないのです。パウロは自らが計画した宣教旅行を実行しようとしました。しかし、その思いは砕かれたということです。

そしてもう一つは、宣教は人間の感情や気持ちに配慮するものでもありません。第二次宣教旅行は最初の宣教旅行以上の数多くの困難がありました。今日の本文すぐ後で、パウロとシラスは牢屋に投獄されます。

使徒16:23そして(パウロとシラスを)何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み看守に厳重に見張るように命じた。

彼らには常に命の危険がありました。パウロがバルナバの勧めを受け入れて、マルコを連れて宣教に行くならば、マルコは再び逃げ出したかもしれません。パウロ自身もマルコに配慮しながら、大胆な宣教活動ができなかったかもしれません。パウロがシラスを選んで共に行くことで、大きな宣教の働きが出来た事は否定できない事実でした。

それでは私達にとってどちらが正しいのでしょうか?パウロのように、主のために計画する、ビジョンの実現や献身を大切にするべきでしょうか?それとも、バルナバのように、主の愛の心で、人の心に配慮し、励ますことを優先すべきでしょうか?答えはどちらでもありません。

パウロは自分の意見を押し通して、バルナバと別れて宣教を推し進めました。しかし、主はパウロの考えで宣教の働きを行うのではなく、聖霊の導きに従うように促しました。そのようにして、パウロはフィリピにやって来たのです。

神の国の働きは人間の最大限のパフォーマンスを通して成しとげるものではありません。また、人間の最大限の憐れみや励ましを通して成し遂げられるものでもありません。神の働きは、私達の働きと、私達の心をキリストに向けた時、成し遂げられるものだと信じます。私達が神のために偉大な働きをするのではありません。偉大な働きは私達がするものではなく、キリストが私達の代わりに十字架で既に成しとげられたものです。また、私達が隣人のために最大限の配慮と愛を示すことで成し遂げられる訳でもありません。最大限の配慮と愛は、キリストが十字架の上で示された愛であります。

使徒言行録を通して示された宣教の働きは、私達が人間の行いに注目するのでもなく、また私達が人間の感情に注目するのでもなく、キリストの成しとげた行い、キリストの私達に対する愛に目を向けた時に前進する東京リビングストーン教会になることを信じましょう。