2.正義の胸当て

胸当ては非常に大切です。なぜならば、これは心臓を守るものだからです。以前、何回かニュースを聞いたことがあります。アメリカである人がピストルで胸を撃たれました。しかし、死ななかったので、なぜなら胸ポケットに聖書が入っていて、ピストルの弾丸を吸収してくれたという奇跡的なお話。聞いたことがありませんか?胸当てがあれば、人間の命を守ることができます。また、戦争の時に一番攻撃されやすいのが胸であります。つまり私達の信仰生活の心臓部分をどのようにして守るのかと言う事です。それは正義の胸当てです。これはただの正義ではありません。私達は時として間違った正義の胸当てを付けていることがあります。それは神の義ではなく、人間の正義です。人間的な正義感です。


多くの人々が信仰生活で失敗してしまう原因の一つに、自分なりの義、自己義が強すぎることがあります。私も色々な兄弟姉妹と接しながら、時々そういう人を見る事があります。自分の考えが強いです。それで自分のしっかりとした考えがあります。たしかに人間的に見ると正しいです。行動も模範的です。しかし、他の考えを認めることができません。それで争いが絶えない人がいます。少しでも自分と考えが違う人を簡単に裁いてしまう人がいます。こういう人は信仰生活でつまづきやすいです。あまりにも自分が正しく、真実に真面目に生きているので、神の義が何なのかを見失ってしまうのです。特に日本人に多いかもしれません。日本人は客観的に見ても真面目で正しく生きている人が多いと思います。だからこそ、自分の罪を赦して下さるイエス・キリストの義を知る事ができないことがあります。


キリスト教がヨーロッパ全土に広がる中で、紀元五世紀にキリスト教の教理で大きな論争が起こりました。その代表的な2人の人物が、アウグスティヌスとペラギウスです。ペラギウスはイギリスの修道士でありました。非常に道徳的で敬虔なクリスチャンであり、自分自身の素晴らしい道徳倫理とその清い行動によって多くの人々から尊敬されて、彼の弟子も数多くいました。しかし、彼の主張はこうです。『人間は自分の意志と行いによって救われることができる』もちろん、神の存在もイエス・キリストも信じます。しかし、救いとは、神の恩恵、神の恵みによるのではなく、自分の力で勝ち取ることができるというのが彼の主張でした。人間的に見れば、彼は聖人です。その行い、その言葉、正しくて文句のつけようがない偉大な人物です。彼は恐らくそのあまりに素晴らしい人格により、自分の義により、自分の行いにより救いが得られると錯覚しました。かたやアウグスティヌスはどうでしたか?彼の母モニカは敬虔なクリスチャンでした。しかし、彼はひどく堕落した生活を送りました。名前も分からない女性と結婚しないまま15年間同棲して、子供も産みました。その後にマニ教と言う異端宗教にはまりました。彼の生活はまったく清さのないものでした。アウグスティヌスは著書である『告白』の中で、

「私は肉の欲望に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と述べています。つまり、彼はまさに罪人の頭として生きていました。しかし彼が母モニカの長い執り成しの祈りの末に回心します。彼の救いに関するメッセージは『全的堕落と神の絶対恩恵』です。人間は完全に堕落している。自分の力では救いようもない。なぜなら彼自身がそのように生きてきたからです。だからこそ、人間を救うのは、神の絶対的な恵み以外にありえない。そして人は行いによるのではなく、ただ神の恵みと信仰のみによって救われることができる。これこそがアウグスティヌスの救済論の基礎でありました。その思想は宗教改革の中心人物であるルターやカルヴァンにまで引き継がれ、キリスト教の救済論の基礎になっています。アウグスティヌスとペラギウスの論争は、人間的にはペラギウスが優れているように思えます。しかし、神の正義は、私達のような滅びゆく罪人、地獄に行くべき罪人、そういう私達をキリストの十字架によって完全に贖って下さる絶対的な恵みであります。このただ信仰による救い。これこそが神の義であります。


ローマ3:21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。


私達が身につけるべき正義の胸当てとは、人間的な正義感ではなく、キリストの十字架による贖いによる信仰によって与えられる神の義であります。その神の義を身につけるならば、私達は信仰の心臓部分を攻撃されることはありません。常にサタンは、私達の信仰生活で、私達の良心を攻撃します。お前はクリスチャンである資格がない、お前は救われる価値もない罪人である。人は時に罪責感で悩みます。しかし、私達がどんなに罪人であったとしても、キリストによる神の義は取り消されることがありません。私達は罪人の頭であります。しかし、我々はキリストによる神の義を大胆に宣言しましょう。なぜなら、それは私達の行いによるのではなく、ただ神の恵みによるからであります。