東京リビングストーン教会主日礼拝2015.1.18

聖書本文:一ペテロの手紙3:8-14

主題:心の中でキリストを主とあがめなさい

初代教会の時代にポリュカルポスという偉大な信仰者がいました。彼は86歳の時に捕らえられ、ローマの兵士に脅されました。「キリストを否定して、信仰を捨てるなら、あなたを自由にしてあげよう」しかし、彼は答えました。「86年間、私はキリストに従いながら、裏切られた事は一度もない。どうして今、主であるキリストを裏切る事ができるだろうか」最後には、彼を火あぶりにすると言いました。しかし、彼は「すぐに消えてしまう火など、私は恐れない。あなたがたは永遠に燃える火を知らないのだ」と答えました。ポリュカルポスは殉教しました。しかし、彼の信仰は今も生きています。

私達はどのようにしてこのような力強い信仰をもって歩むことができるでしょうか。今日の本文14節の後15節にこのように書いてあります。『心の中でキリストを主とあがめなさい』

何よりも私達にとっての最高の祝福は、主イエス・キリストと出会い、あがめることに他なりません。

日々の礼拝の中で、キリストを主とあがめましょう。日々の礼拝で生きておられる主を体験する者になりましょう。彼らの主に対する命をかけた愛、彼らの恐れを乗り越える信仰はどこから来たのでしょうか?まさに主をあがめる礼拝の中で、彼らはイエス様と出会ったとしか言いようがありません。カッパドキアの洞くつのような狭くて暗い礼拝堂の中で人々は主と出会ったのでしょう。ペテロは主を見て、生活を共にし、裏切ったにも関わらず主は赦して下さいました。そのようなイエス様をペテロは命をかけて愛しました。それは理解できます。しかし、主と一度も会ったことがない。見た事がない初代教会の信徒たちも、同じように主を愛したのです。ただ一つ言えるのは、彼らは主をあがめる中で、主に祈り、使徒たちの御言葉を聞く中で彼らも主と出会ったとしか言いようがないのです。それは私達も同じではないでしょうか。私達も主を見た事がありません。生活を共にしたこともありません。しかし、我々も礼拝を通して、御言葉と祈りの中で主と出会うことができると信じます。ペテロが主と出会い、愛したように、そして初代教会の兄弟姉妹が主を見ていないのに主を愛したのと同じレベルで、同じ愛で、我々も主を愛することができると信じます。なぜなら、私達も初代教会の兄弟姉妹が受けた祝福を受け継ぐ者だからであります。そのようにして、恐れと不安を乗り越えていく我々になりましょう。それは主をあがめる礼拝、御言葉と祈りの中で受ける祝福であります。

最近、ある先生がこのように言っているのを聞いて新たに悟ったことがあります。罪深い人間はどのようにして変わる事ができるのかということです。私達は礼拝を通して、主と出会い、変化することができます。M.ロイドジョンズというイギリスの有名な説教者がいますが、彼はメッセージ中はノートに説教のメモを取らないように言ったそうです。なぜなら、まさに礼拝のその最中に主があなたを変化させようとしているのだから、鉛筆を動かすよりも礼拝で主と出会うことに集中しなさいというものでした。そのような話をしながら分かち合ったことは、私達は聖書の御言葉を自分の生活に適応しようとします。日々のQTも勿論、御言葉の悟りを適応しようとします。しかし、本当に大切なことは、聖書の御言葉を自分自身に適応することではなく、自分自身を聖書の御言葉の中に発見する時に、私達は本当の変化を体験することができるということです。分かりますか?私達は生活の色々な分野で御言葉を当てはめて、適応しようとします。職場生活であったり、家庭生活に御言葉を適応します。それも素晴らしい事です。しかし更に大きな恵みは、自分自身の人生を聖書の御言葉、神様の偉大な救いの歴史と言う物語の中に自分自身の人生を発見する時に、我々は本当の変化を体験することができます。

私達はなぜイエス様の十字架を信じることができたでしょうか?二千年も前の出来事が、なぜ今の自分と関係ありますか?なぜならば、全ての生まれ変わったクリスチャンは、十字架の事件の中に自分自身の姿を見たのです。イエス様を十字架に付けろと叫んでいる群衆の中に自分の姿を見て、主が十字架で苦しんでいるのを見ている群衆の中に自分の姿を見たのです。それで、クリスチャンは、『私が主を十字架に付けました』と告白します。また、主の代わりに解放された殺人犯バラバの中に自分の姿を見ます。それで、『私の代わりに主が十字架で死なれました』と告白することができます。聖霊によって我々に与えられる恵みというのは、ただの生活における適応を越えているものであります。私達は聖霊の感動によって、二千年前の主イエス様の事件の中に、私の姿を見るのです。賛美歌で「君もそこにいたのか」という歌があります。「主が十字架に付けられる時、君もそこにいたのか」という歌です。私達は主の十字架の現場に自分の姿を見て、自分がキリストとは無関係ではなく、赦されるべき罪人であることを悟るのです。また同時に昨日のQTの個所でもある38年間病気のまま横たわる人の姿の中にも、本当に罪の状態から良くなろうとしていない無気力で無能力な自分自身の姿を見ました。ある人はザアカイの中に、ある人はマグダラのマリアの中に自分の姿を見ます。しかし彼らは主と出会い、新たに変えられたのです。そのような人物達の姿の中に自分自身を発見し、彼らが主と出会って救われ、変化されるように、自分も新たに変わるのだと信じることができます。初代教会の多くのクリスチャン達は、我々と同じくイエス様を見る事ができませんでした。しかし、彼らは使徒たちのメッセージの中に、福音書の物語の中に、自分の姿を発見し主と出会ったのであります。そして主イエス様を愛するようになりました。主の愛を知り、体験し、恐れることなく迫害に立ち向かう人々になりました。私達はこの手紙を書いている使徒ペテロの中にも、自分自身の弱い姿、罪深い肉の姿を見る事ができます。また同時に主に赦され、聖霊に満たされて生きる、主の為に死ぬ事ができる偉大な使徒ペテロの中にも自分の姿を見つけることができると信じます。私達はペテロが勝利したように勝利できると信じます。全ての信仰の力と祝福の源は御言葉の中に、自分自身の姿を見つけることであります。私達は明日から始まるエファタウィークにも期待しましょう。神の御言葉の中に自らの姿を見て、そして癒され、変化される私達になりましょう。そして、祝福を受け継ぐ者として、神の善を行い続ける私達になりましょう。