東京リビングストーン教会主日礼拝2015.1.18
聖書本文:一ペテロの手紙3:8-14
主題:神の愛は恐れを締め出す
ペテロが『恐れるな』と語りかけた初代教会のクリスチャン達はどのような環境にあったでしょうか。
客観的に考えるならば、初代教会のクリスチャン達はどんなにか人々を恐れ、心を乱される環境にあったでしょうか?信仰告白さえもままならない状況でした。キリストを信じている事が分かれば、すぐに逮捕されました。この手紙の最初を見て見れば、ペテロはポントス、ガラテヤ、カパドキアという小アジアのクリスチャン達に手紙を書いています。まさにカパドキアは、迫害を逃れるためにクリスチャンが山に大きな洞穴を作った場所です。今もその巨大迷路のような洞窟が掘られた山々がトルコの観光名所になっているほどです。しかし、彼らはこの手紙の1章8節にあるような人々でした。
一ペテロ1:8あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
彼らはキリストを愛していました。これがどんなにかペテロにとって不思議なことであったでしょうか?ペテロは主を愛していました。『主を愛します』という言葉を、目の前で言いました。主が十字架にかかる前はアガペーの愛で愛すると言いました。十字架の時、主を三回否定し、主が復活した後に再び会った時には、「自分はせいぜいフィレオの友情の愛でしか愛せないが愛している」と言いました。それでもペテロはイエス様と共に生活し、主を愛したのです。高松教会の小川先生が私達の教会に来た時もメッセージしていましたが、本当にこれは不思議なことです。ペテロはイエス様を間近で見たし、共に生活をしました。だからこそ、主を愛することはできたでしょう。しかし、初代教会のクリスチャン達は、使徒や主だった弟子以外は当然主イエスを見た事がありませんでした。話を聞いたことしかないのです。それでも、この手紙を読んでいるであろう主の弟子達はイエス様を愛していたのです。キリストを見た事がないのに愛していました。ペテロが主を愛するのと同じレベルで愛していました。どんなにかペテロは驚いたでしょう。しかし、これこそが主が今も生きておられるという証しであります。なぜなら、主は「聖霊」として私達の心の中におられ、私達と人生を共にされるお方だからであります。ペテロが目に見える形で3年間主と共に歩んだように、私達は内在される聖霊様と共に人生を歩んでいます。それが、私達が主を愛するという信仰告白であります。だから私達はペテロのように、初代教会の兄弟姉妹のように主を愛していますと告白しましょう。そして、主を愛する者こそが、恐れることなく悪に立ち向かうことができると信じます。
一ヨハネ4:18愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。4:19私たちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
主を愛するならば、恐れを締め出すことができます。愛は恐れに打ち勝つ力があります。ある意味、今も多くの人々は、男女の恋愛を通しても自分を忘れている。ある意味人々を恐れないほどに大胆です。
本当に愛しあう2人にとって見れば、大切なことは愛する人が自分をどう思うかであって、周囲の人が自分をどう思うか少しも気にすることはありません。それゆえに、私達は駅や公園で時々愛し合う男女が周囲を全く気にしない姿を見ることがあります。彼らは互いの愛の故に、自分自身も、周りの人々も忘れているのです。しかし、その愛はあくまでもこの世の愛であり、エロスの愛であり、永遠のものではありません。私達と主との愛はもっと深くて完全なものであるはずです。主が私を愛しているという感動と感激の故に、この世の人々の評価や出来事が全く気にならないとしたら、どんなに素晴らしい関係でしょうか。私達は主との関係のなかで、自分自身を忘れ、この世の人々を忘れる事ができるのです。NewYorkのRedeemerChurchのティモシー・ケラーという牧師はSelf-Forgetfullnessという言葉を使いました。『自分を忘れる事』という意味です。主が私を愛しているという、その愛の故に自分を忘れ、人々を忘れることで、私達は恐れを克服する事ができると信じます。
初代教会の人々が体験した主の愛はそのようなものでした。彼らはペテロのようにイエス様に会いませんでした。しかし、彼らは主の愛を知っていました。体験していました。その主の愛の故に、恐れることがありませんでした。私達も同じであります。どうすれば、私達はこの世において、霊的に荒れ果てている社会において、恐れなく大胆に、クリスチャンとして生きていくことができるでしょうか。主を愛することであります。また一ヨハネ4:19にあるように、神がまず私達を愛して下さったその十字架と復活の愛をもう一度心にとめましょう。
何よりもペテロ自身が主を愛していたので、迫害を恐れることがありませんでした。そしてもはや主イエスを裏切ることなく、最後まで否定する事もありませんでした。ペテロはローマのバチカンの丘で十字架に付けられて殉教の死を成し遂げました。多くの初代教会の人々が、ペテロの後に続きました。主を愛する故に迫害に対して恐れなく立ち向かいました。