東京リビングストーン教会主日礼拝2015.1.18

聖書本文:一ペテロの手紙3:8-14

主題:神の祝福を受け継ぐためには

 第一ペテロの手紙は、AD64年~65年に書かれたと言われています。ローマ帝国ではまさにネロ皇帝による迫害が始まっている時期であります。迫害と苦しみを背景に書かれています。使徒ペテロは、まさにこのネロ皇帝の時代にローマで殉教したと言われています。だから、この手紙を書いてしばらくした後に彼は死んだということです。使徒ペテロの人生の晩年におけるメッセージであり、彼の人生の総決算のメッセージと言う事もできます。同時にあらゆる時代において、同じような困難や迫害に苦しむ人々に対する励ましのメッセージでもあります。

今日の本文には、使徒ペテロや当時の初代教会のクリスチャンが置かれていた厳しい状況の中で、彼らがどのように信仰によって生きようとしたかというのを生き生きと見る事ができます。彼らにとって迫害を受けるということは、あまりにも身近であり、今ここに起こり得る出来事でした。私達はそのような迫害を国家権力から受ける事は今はないでしょう。しかし、あらゆる信仰生活の中で、神の国と神の義の為に苦しみを受けることはあります。そのような中で初代教会のクリスチャン達が、どのようにして悪や理不尽と立ち向かったのかを知る事は、私達にとって大きな益となることを信じます。

3:8終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。

ここでペテロが『終わりに』と言っているのは、この手紙を終えようとしていることではありません。今までペテロは様々な人間関係について語って来ました。奴隷と主人に対して、夫と妻に対してどのように信仰をもって一致するべきであるのかを書いてきました。ここでは、そのあらゆる人間関係のまとめとして『終わりに』と言っているのであります。それは、私達があらゆる立場を越えて主の中で一つになり、同情し合い、憐れみ深く、謙虚になることの命令でもあり、主がそれを成し遂げて下さるという約束でもあります。主が言う一致というのは、全てが同じになるということではなく、真理の本質において一致し、本質ではないことには自由があり、全ての事において愛によって仕え合う共同体の姿であります。初代教会は奴隷や主人、ギリシャ人とユダヤ人、あらゆる立場の違いを越えて、キリストの体として一つになる恵みがありました。私達のリビングストーン教会もそのような互いに愛によって一つになる恵みがあるよう祈りましょう。

今日はそのような中で、クリスチャンに悪を働く者、迫害する者達に対してどのようにするべきであるのかをペテロは語っています。

3:9悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

これを聞いてイエス様の山上の説教を思い出さない人はいないでしょう。イエス様は山上の説教で語られました。

マタイ5:39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。5:44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

ペテロは間違いなくイエス様に最も近い場所で山上の説教を聞いたでしょう。そしてそれを覚えていたはずです。昔は漁師であり、今ペテロは使徒として手紙を書いています。イエス様との出会い、また十字架と復活の事件から約30年が経ちました。主は、ペテロをご自分の約束の通りに、『わたしの羊を飼う者』となさいました。彼の主に対する愛はあまりにも足りないものであり、大きな失敗もありました。しかし今やペテロは偉大な使徒として、羊の牧者として愛をもってイエス様の語られた御言葉を自分の口で語っています。「悪をもって悪を返してはなりません。むしろ祝福しなさい。」使徒ペテロはまさに聖霊の感動により語っています。ペテロに起こった素晴らしい変化は、私達にも起こるものだと信じます。我々もこのようになりたいです。ペテロは主が捕まる時、『主よ、剣で打ちましょうか』と言って、剣をとって真っ先にローマ兵士の耳を切りつけたではないですか?あの場面を思い出せますか?イエス様があわててローマ兵士の耳を奇跡的に癒したのを。彼は主イエスを捕らえるという悪に対して、剣という悪をもって答えようとしました。ローマ兵の耳を切り落としました。しかし、30年の時が過ぎて、今はそのようには言いません。あのペテロがこのように語っているということが、私達にとって大きな慰めであります。乱暴で、気が短いあのペテロは今や主の御言葉を語る者になっています。私達も同様であります。どんなにか我々は罪深く足りないものでしょうか?私達もペテロと同じです。しかし、素晴しい恵みは、我々もペテロのように、時間はかかっても主の前で相応しい者へと造りかえられていくという確信です。主と共に歩む人生の中で、我々もペテロと同じように足りなさ、弱さを日々造り変えて下さり、主の前に相応しい者に聖化されることを信じましょう。

御言葉の9節にあるように、なぜ私達は悪には悪で、侮辱に対して侮辱で返してはならないのでしょうか。分かりやすく答えるならば、このように言う事ができます。『火をもって火を消す事はできない』ということです。火を消す事ができるのは何でしょうか?それは水だけであります。火をもって火を消そうとするならば、もっとひどい事になるでしょう。同じく、悪をもって悪に報いるならば、この世界はますます荒れ果てていきます。今の世界がまさにそうではないでしょうか。この世は、悪による復讐の連鎖が続けられています。

この連鎖を断ち切ることのできるのはクリスチャンだけであるという確信が必要であります。敵に対する復讐ではなく、その相手を祝福するために、神は私たちを召されたのだと、今日の本文は言ってます。その全ての模範を主イエス様ご自身が十字架の上で死なれる事を通して、人々に赦しを宣言することを通して、明確に示されました。イエス様は人々の罪に対して罪で答えませんでした。人類の悪に対して悪をもって答えませんでした。イエス様の答えは『十字架の死』でありました。十字架の死をもって、私たち罪人に応えてくださいました。そして私達クリスチャンにも、イエス様と同じ心で悪に対して答えられるように、私達の内に聖霊を住まわせてくださいました。主を賛美しましょう。日々、十字架を背負うとは、『私の罪深い肉を十字架につけて葬り去る』ことです。そして、代わりに私達は『祝福』をもって答えましょう。赦して祝福するならば、復讐の連鎖を断ち切ることができると信じます。