東京リビングストーン教会木曜礼拝2015.8.27

旧約聖書士師記の2章を読んでみて下さい。士師記1章においては、ヨシュアの時代から続くカナンの土地の征服の状況が語られました。各部族を見てみると、ユダ族からダン族へ向かい、その占領範囲がどんどん狭まっています。最初のユダ族は勝利したにはしたけれども、完全に敵を追い出すことはできませんでした。それは私たちの霊的妥協の姿を表しているようでもあります。初めはわずかな妥協だったのだけれども、次第にその妥協の範囲が広がります。その後の部族もカナンの住民に勝利はしたものの、完全に敵を滅ぼすことはできませんでした。それでその土地にカナン人は留まり続けることになります。最後のダン族に至っては、逆にアモリ人に追い出されるようになり、平野に降りてくることができませんでした。このように各イスラエルの12部族はカナンの土地に入り、そこに住み着くことはしたものの、完全な勝利とは言えませんでした。敵はその土地にとどまり、イスラエル12部族のそれぞれに影響を及ぼすようになります。

このような士師記の状況を見ながら、私たちの信仰生活を思い出すことができます。この士師記の内容は、私たちとは関係のない物語ではありません。ここにあるイスラエルの人々の姿は、私たちの姿でもあります。ヨシュアの時代を通して、約束の地を手に入れました。カナン人に対して勝利して、イスラエル12部族は約束の土地を手にはいれたのです。ヨシュア記は勝利の連続の物語でもありました。ヨシュア記の主人公でもあるヨシュアの名前は正確には『イエシュア』です。この『イエシュア』という言葉が、つまりイエスであります。発音の仕方が違うだけであって、ヨシュアもイエスも同じ意味です。それは『神は救い』という意味であります。聖書の中で、あらゆる物語は真の救い主であるイエス・キリストを予告するものになっています。エジプトの奴隷状態から解放して人々を導いたモーセは、罪からの解放者としてのイエス・キリストを表しています。さらには、約束の地を占領し、偉大な勝利を成し遂げたヨシュアは、勝利者としてのイエス・キリストを表しています。まさにヨシュアはイエスであり、真の霊的な戦いの勝利者はイエス・キリストなのです。私たちもイエス・キリストにより罪から救われました。私たちのすべての罪は許され、神の子供とされ、天の御国が約束されています。しかしながら、いまだに私たちはこの21世紀という時代、日本という土地に生きています。そこは罪と隣合わせの土地です。そして私達の心の中にも罪が住んでいます。私たちは完全に救われてはいるものの、完全に神の子でありながらも、私たちの中から罪を完全に追い出すことができていないのです。これがまさに士師記の状況そのものであると言えます。そんな中で私たちはどのように罪と戦いながら、歩んでいくべきでしょうか?