先日、一週間七日の起源は聖書の天地創造の物語(創世記1、2章)から来ていることを話した。それでは安息日(七日目)は何をする日でしょうか?\\

多くの人は、安息日とは単純に休む日だと考えている。しかし、そうではない。

第七日目は、全てのものの完成であり、祝福の頂点、喜びと感謝の頂点を意味する。

このように考えて見よう。ウォルト・ディズニーがディズニーランドを創設しようとする、あらゆる計画を立て、予算を計算し、労働力を確保し、設計図を描いてディズニーランド着工に取り掛かる。

長い年月をかけてディズニーランドが完成し、全てが整えられた。

しかし、開園しない。人々が待っていても開園されず、人々がそこに入ることもできないし、楽しむこともできない。全ては整っている、しかしそこは人々が楽しむ場所ではなく、閑散とした遊園地の風景のみである。

こんなことがあったら愚かで馬鹿馬鹿しいと思うだろう。何のためにディズニーはディズニーランドを創設したのか?それを造って眺めて、自己満足することではない。そこで多くの人々が楽しみ、喜び、満足して幸せになることを願っているのだ。

聖書の天地創造と第七日の安息日も同じ意味がある。六日までで全ては完成している。太陽も月も、美しい花や木も動物、魚や鳥も飛んでいる。そして人間も創造された。神の傑作品である。全ては整えられた。

しかし、そこには何の交わりもない、全ての創造者である神がそこにいない。そして創られた人間も動物も拍子抜けしている。神は疲れたので、休んでいて、人間は置いてきぼりにされている。

このようなことがあってはならない。そこで、安息日の意味を考えて見よう。それは全ての完成であり、喜びと幸せの頂点である。そこでは、全てのものが創造され、人間が創造され、神が創られたディズニーランドよりもはるかに美しい世界において、人間や全ての生き物が神との交わりを楽しみ、神に感謝し、崇めて楽しむことを願っている。それが完成なのだ。物理的な完成ではない、神との関係が完成することである。

だからこそ、現代の安息日である日曜日に教会は礼拝をする。日曜日、仕事で疲れた休日になぜ教会に行くのか?人間は神の懐に抱かれ、神との関係が回復されるときにこそ、真の癒しと平安、喜びが回復するからである。東京リビングストーン教会はそのような礼拝を毎週ささげたいと願っている。
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