前記事にも少し触れましたが…
わたしは転校生でした。
両親の離婚で、千葉から新潟のド田舎へ。
千葉の団地には、大好きなお友達がたくさんいたけど、転校で音信不通に。
当時の両親の間になにがあったかは子供のわたしには分かりませんでした。
ただ、母は父を恨んでいた
事だけは、9歳の私にも強く感じていました。
私の顔は父親そのもの。
新潟に来てからは、母は私に対して冷たくなりました。
【お前の顔を見てるとイライラするんだよ】
【お前には気持ち悪い人間の血が流れてるんだよ。お前はその血が濃いんだよ】
【お前なんか(千葉に)置いてくれば良かった】
そんな言葉の暴力の他に、母が私に物理的暴力を震うのは日常茶飯事でした。
妹達は今でも言います。
お姉とお母さんがやり合ってるのが怖かった。
と。
当時、新潟に越してきたばかりの頃。
私たち家族は住む場所がありませんでした。
おじいちゃん、おばあちゃん。
おじさん、おばさんの好意で、おばあちゃんの家に数ヶ月お世話になっていました。
おばあちゃんの家には、
いとこ3兄弟が住んでいました。
私より1つ年上のいとこ(男)は、私には意地悪というか、かなり感じの悪いヤツでしたが、何故だか妙に女子からモテる男でした。
『お前、俺んち来るな』
って、言われたり。
いとこのクラスの上級生女子に呼び出しを食らい
『●●(←いとこ)の家に出入りするな。』
『●●と口を聞くな』
などとイジメを受けたり。
制服や体操服を焼却場に捨てられたり。
机に花瓶が飾られていたり。
机に【死ね】って書いてあったり。
女子8人に呼び出されて。
寄ってたかって上履きで顔を殴られたり。
ベランダに詰め寄られて【死ね死ねコール】で飛び降りを強要されたり。
九官鳥の小屋に閉じこめられたり。
学校でも家庭内にも居場所が無かった。
私が転校した先の新潟の村は
小さな小さな村。
母は、両親(おじいちゃんおばあちゃん)や、おじさんの反対を押し切り私を妊娠して強引に父と一緒になった末、小さな村に帰ってきた出戻りシングルマザー。
わたしの父の実家は、
世間からは後ろ指を指されるような家業。
今ほど外車の台数が無かった30年以上も前
。
父は、幼い私を乗せて父の父の所有する派手な外車
【リンカーン コンチネンタル】で、
新潟の山の中の小さな村を走り回っておばあちゃんの家に横付けしたのは自身でも記憶に新しい。
ブルーのフロントガラスから見える村人が物珍しそうに眺めていた記憶がハッキリとある。
小さな村なので、その噂は村人じゅうが知っているようだった。
そんな事もあり、同級生のお母さん達は
【アツさんとはあまり関わらないで】と、子供達に促していたらしい。
当時、クラスの子に
『一緒に帰ろう』と、声をかけると
『お母さんにアツさんとは遊んじゃだめって言われてるから』
と、断られる事も多々あった。
そして、教師からのイジメの標的でもあった。
小学校5~6年生の時の担任の
村●教師。
この村●という教師は今のこの時代に27年前に私にしたことをしていたら速攻、懲戒処分だろう。
プリントを提出しなかった罰として、わたしのスカートとパンツを脱がせて生徒玄関前にたたせたり。
授業中、忘れ物をした私を強引に車に乗せ、妹の教室に授業中に強引に押し入り、妹から私の自宅の鍵を奪い、母の留守中の私の自宅に妹から奪った鍵を使い押し入ったり。
とにかくムチャクチャだった。
授業を中断させられた妹の担任の近●先生もあっけにとられていたという。
そんな四面楚歌だった小中学校時代。
失うものなど、何一つ無かった時代。
学校にも、家庭内にも居場所なんてドコにもなかった。
友達もいなかった。
イジメが辛くて学校休みたかった。
だけどクラスメイトのイジメよりも、
母の言葉の暴力と物理的暴力が辛かった。
家族を頼ることもできなかった。
…よく、生きてきたね、アツさん。
ぶっちゃけ、
旦那が亡くなった時より
ガンを宣告された時より
小中学校時代の方が辛かった。
わたしは転校生でした。
両親の離婚で、千葉から新潟のド田舎へ。
千葉の団地には、大好きなお友達がたくさんいたけど、転校で音信不通に。
当時の両親の間になにがあったかは子供のわたしには分かりませんでした。
ただ、母は父を恨んでいた
事だけは、9歳の私にも強く感じていました。
私の顔は父親そのもの。
新潟に来てからは、母は私に対して冷たくなりました。
【お前の顔を見てるとイライラするんだよ】
【お前には気持ち悪い人間の血が流れてるんだよ。お前はその血が濃いんだよ】
【お前なんか(千葉に)置いてくれば良かった】
そんな言葉の暴力の他に、母が私に物理的暴力を震うのは日常茶飯事でした。
妹達は今でも言います。
お姉とお母さんがやり合ってるのが怖かった。
と。
当時、新潟に越してきたばかりの頃。
私たち家族は住む場所がありませんでした。
おじいちゃん、おばあちゃん。
おじさん、おばさんの好意で、おばあちゃんの家に数ヶ月お世話になっていました。
おばあちゃんの家には、
いとこ3兄弟が住んでいました。
私より1つ年上のいとこ(男)は、私には意地悪というか、かなり感じの悪いヤツでしたが、何故だか妙に女子からモテる男でした。
『お前、俺んち来るな』
って、言われたり。
いとこのクラスの上級生女子に呼び出しを食らい
『●●(←いとこ)の家に出入りするな。』
『●●と口を聞くな』
などとイジメを受けたり。
制服や体操服を焼却場に捨てられたり。
机に花瓶が飾られていたり。
机に【死ね】って書いてあったり。
女子8人に呼び出されて。
寄ってたかって上履きで顔を殴られたり。
ベランダに詰め寄られて【死ね死ねコール】で飛び降りを強要されたり。
九官鳥の小屋に閉じこめられたり。
学校でも家庭内にも居場所が無かった。
私が転校した先の新潟の村は
小さな小さな村。
母は、両親(おじいちゃんおばあちゃん)や、おじさんの反対を押し切り私を妊娠して強引に父と一緒になった末、小さな村に帰ってきた出戻りシングルマザー。
わたしの父の実家は、
世間からは後ろ指を指されるような家業。
今ほど外車の台数が無かった30年以上も前
。
父は、幼い私を乗せて父の父の所有する派手な外車
【リンカーン コンチネンタル】で、
新潟の山の中の小さな村を走り回っておばあちゃんの家に横付けしたのは自身でも記憶に新しい。
ブルーのフロントガラスから見える村人が物珍しそうに眺めていた記憶がハッキリとある。
小さな村なので、その噂は村人じゅうが知っているようだった。
そんな事もあり、同級生のお母さん達は
【アツさんとはあまり関わらないで】と、子供達に促していたらしい。
当時、クラスの子に
『一緒に帰ろう』と、声をかけると
『お母さんにアツさんとは遊んじゃだめって言われてるから』
と、断られる事も多々あった。
そして、教師からのイジメの標的でもあった。
小学校5~6年生の時の担任の
村●教師。
この村●という教師は今のこの時代に27年前に私にしたことをしていたら速攻、懲戒処分だろう。
プリントを提出しなかった罰として、わたしのスカートとパンツを脱がせて生徒玄関前にたたせたり。
授業中、忘れ物をした私を強引に車に乗せ、妹の教室に授業中に強引に押し入り、妹から私の自宅の鍵を奪い、母の留守中の私の自宅に妹から奪った鍵を使い押し入ったり。
とにかくムチャクチャだった。
授業を中断させられた妹の担任の近●先生もあっけにとられていたという。
そんな四面楚歌だった小中学校時代。
失うものなど、何一つ無かった時代。
学校にも、家庭内にも居場所なんてドコにもなかった。
友達もいなかった。
イジメが辛くて学校休みたかった。
だけどクラスメイトのイジメよりも、
母の言葉の暴力と物理的暴力が辛かった。
家族を頼ることもできなかった。
…よく、生きてきたね、アツさん。
ぶっちゃけ、
旦那が亡くなった時より
ガンを宣告された時より
小中学校時代の方が辛かった。