八釣山地蔵尊(興福寺)北の丁字路に立つ天香山埴安伝承地道標。神武東征神話による天香山埴安伝承地(説)「赤埴山」を案内している。 
[西面]_(右指差し)、天香山埴安傳稱地道 



[南面]_昭和十五年十一月 



[北面]_紀元二千六百年奈良縣奉祝會建之 



なだらかな尖頭形状をした頭頂部とふっくらとした指差し指示。







「八釣山地蔵尊」の碑と並んで立っている。



西側から。



南側から。



北側から。道の先の左側に八釣山地蔵尊(興福寺)、右側に畝尾坐健土安神社がある。



6基の天香山埴安伝承地道標の位置と、赤埴山(埴安伝承地)への簡単な地図を載せておく。左上の赤黒丸が現在地(この道標の場所)。



赤埴山(標高約90m)山頂に建てられた「天香山埴安伝承地」の碑。現在は失われているが昔は説明板があったという。


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奈良縣奉祝會(紀元二千六百年奈良縣奉祝會)によって建てられた、天香山埴安伝承地(説)を案内する道標群のうちの一つ。八釣山地蔵尊(興福寺)北の丁字路に「八釣山地蔵尊」の碑と並んで立つ。

天香山埴安伝承地とは、神武天皇が東征の際に天香山(天香久山)付近の赤土と白土を採って器を作り世を鎮めたという伝説による聖跡。

これらの道標は、香久山の北西にある小高い丘「赤埴山」(標高約90m)の山頂に建つ天香山埴安伝承地碑までの道筋を、北西と南東の2方向から案内している。現在、赤埴山の一帯に6基を確認している。(各道標についてはこの記事の一番下の道標マップ、または道標マップを) 

かつては北約350mの八釣街道(橘街道・木之本街道)と安倍街道(長寿道)の辻にも1基あり(旧橿原市史(1962年)P1023)(橿原市史本編下巻(1987年)P888)(奈良の今昔写真WEB(写真あり))、現在天香山神社の鳥居前に立っているものと細部が似ているため、移設されたと考えているが確定的ではない。また、昨年赤埴山の東側に埋まっている同種の道標らしき石柱を見つけているが、確証には至っていない。

奈良縣奉祝會(紀元二千六百年奈良縣奉祝會)は昭和12年に奈良県知事らが中心となって組織され、紀元2600年の紀元節に向けた記念事業として、建国奉仕帯を結成し、橿原神宮の神域拡張工事ならびに、青少年の心身鍛錬を目的として同会が中心となり橿原神宮外苑に橿原道場(大運動場・大講堂・野外公堂・建国会館(現橿原会館)・八紘寮・橿原文庫・弓道場など11施設におよぶ総合施設)を建設した。また、県内の神武天皇の聖跡の保存顕彰などにも力を注いだ(「大和二千六百年史」(1940年/紀元二千六百年奈良縣奉祝會/西田直二郎))(「橿原神宮と建国奉仕隊」(1940年/藤田宗光編))他)。

それらの事業の一環として、日本書紀における神武東征神話に基づく県内の各伝承地に一連の道標が建てられたのだろう。奈良縣奉祝會による各伝承地を案内する道標は現在24基を確認しており、ほぼ同じ様式で作られている。


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・各面の内容 

[西面]_(右指差し)、天香山埴安傳稱地道 
[南面]_昭和十五年十一月 
[北面]_紀元二千六百年奈良縣奉祝會建之 
[東面]_文字なし 


建立年 : 1940年 (昭和15年) 
寸法 : 高129cm×幅18.5cm×厚18.5cm(指差し含む厚20.5cm) 



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