古い記事をリニューアルしました。(2023/12/3) 



大網集落の北東はずれに江戸期(嘉永5年)の大峯供養塔道標が立っている。



[西面]_(中行) 大峯山上五拾…(埋没・度?)、
            (右行) 右、なら、たわら本、楊(柳)本、
            (左行) すぐ、たつた、ほうりうじ、… 




[南面]_(右行) 右、たつた、ほうりうじ、
            (中行) すぐ、たかだ、たゑま、道
            (左行) 左、八木、今井 



[東面]_すぐ、今井、八木、
            左、たわら本、柳本、道 



[北面]_(中行) 行年六拾三歳、當村彦七…、
            (右行) 嘉永五年、
            (左行) 子九月八日、
            (下部) 世話人、蔵○…、源○…、○三…、
                     ○○…、三○…、○○…、甚?七?… 



[北面]_(下部) 世話人、蔵○…、源○…、○三…、
                     ○○…、三○…、○○…、甚?七?… 



頭頂部の形状。



南側から。



北側から。



東側から。



西側から。




2021年の終わり頃、道標のすぐ横にプレハブ小屋が建てられた。



2016年。


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大網集落の北東はずれに立つ嘉永5年の大峯山供養塔道標。

この場所は初瀬街道(伊勢街道)の曽我と下街道の小柳、法隆寺街道の保田を結ぶ小槻街道(今井街道)と、田原本から高田へ通じる高田街道(田原本街道)との交差地点になる。また大網のとなりの百済で高田街道から西に田原本街道が分岐し、馬見丘陵を越えて大坂方面に通じていた。

この道標は大峰登拝50回を記念して大網村の信徒によって建てられたものと思われる。どっしりとした美しい尖塔形状をしており、道標部分は細かく丁寧な案内になっている。

現在は方向が90度変わっており現在の西面は元南面になる。道路拡張工事の際に向きが変わってしまったとのこと(田原本の歴史 第4号)。この場所は立石と呼ばれ、辻には道標とともに西側に皇紀二千六百年記念の国旗掲揚台(昭和13年 大網青年団建立)が立てられている。

道標の立つ角地は以前は空き地だったが現在は2軒の住宅が建っている。2021年の終わり頃道標のすぐ横にプレハブ小屋が建てられたために北面は見え辛くなっている。

※街道については平野村史(1962年)、田原本町史(1986年)、奈良県磯城郡誌(1973年)、橿原市史(1987年)、奈良県北葛城郡瀬南郷土誌(1922年)、大和北葛城郡史下巻(1905年)などを参考にした。


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・各面の内容 

[西面]_(中行) 大峯山上五拾…(埋没・度?)、
            (右行) 右、なら、たわ(王)ら本、楊(柳)本、
            (左行) すぐ、たつた(多)、ほうりうじ、… 
[東面]_すぐ、今井、八木、
            左、たわ(王)ら本、柳本、道 
[南面]_(右行) 右、たつた(多)、ほ(本)う(宇)りう(宇)じ、
            (中行) すぐ、たか(可)だ(多゙)、たゑま(末)、道
            (左行) 左、八木、今井 
[北面]_(中行) 行年六拾三歳、當村彦七…、
            (右行) 嘉永五年、
            (左行) 子九月八日、
            (下部) 世話人、蔵○…、源○…、○三…、
                     ○○…、三○…、○○…、甚?七?… 


建立年 : 1852年 (嘉永5年) 
寸法 : 高102cm×幅30cm×厚28.5cm 


飛鳥川小室橋東、天理教修一分教会前 (高田街道・田原本街道・小槻街道(今井街道)) 



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<2012/12/11 初投稿> 
<2019/3/20 補筆> 
<2019/8/18 新記事で再投稿・写真更新・補筆> 
<2019/9/7 写真更新・補筆> 
<2019/9/9 補筆> 
<2021/9/8 補筆> 
<2021/9/9 北面下部写真追加> 
<2022/10/4 補筆> 
<2023/9/7 補筆> 
<2023/11/27 補筆> 
<2023/12/3 リニューアル(写真更新・補筆)>