大師の道は、伊勢街道(青越伊勢街道・初瀬街道)の三本松長瀬から室生寺へ通じる古道で、おもに伊賀地方からの参拝者が利用した道だったようです。道筋には現在も多くの丁石(町石)や道標が残っており、壹丁石を除くすべてが伊賀地方の人々の寄贈によるものです。(壹丁石のみ地元長瀬の人によるもの)
出発地点である長瀬の辻堂(小室生寺)前には 「女人高野室生山、是より五十丁」 と刻まれた道標(文政2年・1819年)が立っており、これが大師の道の初丁石となり、室生寺入口の太鼓橋前にある「女人高野室生山」と刻まれた寺号標を兼ねる道標(文政2年・1819年)が最終丁石(50丁石)ということになるのでしょう。
長瀬の辻堂(小室生寺)から室生寺までは山越えの7kmほどの道のりで、のどかな里道あり、急斜面をつづら折れで下る部分もあるなど、風景もバラエティに富んでいます。途中には案内板もあり歩きやすいルートとなっています。
では大師の道の丁石と道標をひとつずつ見ていきます。
伊勢北街道(青越伊勢街道・初瀬街道)三本松長瀬の大師堂(小室生寺)前に立つ道標です。文政2年(1819年)に建てられたもので、大師の道はここから始まるようです。室生寺まで 「是より五十丁」 (5.4km)とありますが、実際歩いた距離は7kmほどです。この道標が室生寺への初丁石となり、室生寺入口の太鼓橋前にある「女人高野室生山」と刻まれた寺号標を兼ねる道標(文政2年・1819年)が最終丁石(50丁石)ということになるのでしょう。
[北面]_(梵字・カーン)、女人高野室生山
[西面]_文政ニ卯十二月立之、
是与利(これより)、五十丁
[東面]_丁石發?願主
[南面]_文字なし
大師堂には大きな古い室生山絵図が掲げられています。
まずは寄り道。大師堂横の民家ガレージの敷地内に壹丁石が移設保存されています。この壹丁石のみが地元長瀬の施主によるものです。また壹丁石と四十六丁石だけに紀年銘があります。
[西面]_(上部欠落)…壹丁…(文字なし?)
[北面]_(上部欠落・長?)…瀬里勝村武右…(埋没)
[南面]_(上部欠落)…辰、天正月吉…(埋没)
[東面]_石工、○…(埋没)
もう一つ寄り道。大師堂から120mほど東にある長瀬生活改善センターの敷地内に五丁石が移設保存されています。
[南面]_(梵字・カーン)、五丁
[西面]_ナハリ(名張)本町山賀屋○(小?北?)…(埋没)
[東面]_文字なし?
[北面]_文字なし
大師堂に戻り、大師堂から宇陀川の室生橋を渡って支流の滝谷川沿いを進み右手の山道に入っていきます。この辺りは棚田跡が残ります。
棚田跡を登り切った先にひとつ目の丁石がありました。十丁石の下部です。折れた上部はもう少し上の方に転がっています。
[正面]_十丁
[右面]_○(伊)州、北○…
[左面]_文字あり
[裏面]_文字なし
滝谷花しょうぶ園の横を抜け、やや天空感のある室生瀧谷の集落へ。
瀧谷集落にある十六丁石。旧伊賀郡下小波田の講によるものと思われます。大師の道はおもに伊賀地方からの参拝者が利用した道だったため丁石はほぼすべて伊賀地方の方々が建てたものです。(壹丁石のみ長瀬の人によるもの)
[正面]_(梵字・カーン)、十六丁
[右面]_伊州下小波田村…(埋没)
[左面]_不明
[裏面]_文字なし
集落はずれの茂みの中には十九丁石が隠れています。名張の瓦屋の孫九郎さんがご先祖様の供養のために建てたもののようです。
[正面]_(梵字・カーン)、十九丁
[右面]_ナハリ(名張)世古手瓦屋孫九郎
[左面]_先祖代々爲一切聖?霊菩提中?…(埋没)
[裏面]_文字なし
十九丁石から坂を下るとやまなみロード(奥宇陀広域農道)に出ます。この辺りは室生砥取(ととり)です。右手に道標があります。
お大師さんが彫られた道標(文政2年・1819年)。側面には 「右 三本 をの み(三)ち」 「右 な者゛り(名張) み(三)ち」 とあります。「三本 をの」 とは三本松と大野を指しているのでしょう。大師の道の丁石は三本松長瀬から室生寺まで丁数をカウントアップしていきますが、この道標には 「左 室生山三十丁」 とあり、残りの丁数を示しています。感覚的にはこちらのほうがわかりやすいですね。
[南面]_(仏像・大師座像)、
左、室生山三十丁…(埋没)、
文政二卯年、八月廾?一日、
施主○○(と取?)村清?…
[東面]_右、三本、をの、み(三)ち
[西面]_右、な者゙(ば)り、み(三)ち
[北面]_文字なし
農地の柵の中に二十一(?)丁石が隠れていました。
[東面]_(梵字)、二十一?○(丁?)…(埋没)
[他面]_未確認
少し進むと砥取集落の墓地があります。
以前は墓地前の斜面に二十三丁石が傾いて立っていました。過去の写真と比べると明らかに傾きが増しており、いつ倒れてもおかしくない状態でした。その後、倒れてしまったのか、道の反対側に立て直されていました。この道標には赤目(名張市)の柏原地区の世話人二名の名が刻まれています。
[正面]_(梵字・カーン)、二十三丁
[右面]_伊州柏原村(現名張市赤目町柏原)
世話人、半兵…(埋没)、與?平…(埋没)
[左面]_文字なし
[裏面]_文字なし
製材所(?)前を左へ登り切ったところに文政2年(1819年)の道標が立っています。真ん中で折れて修復されています。側面には 「右 なばり みち?」 とあります。
[北東面]_左、室生山道、
文政二○(卯?年?)…(埋没)、
八月日、施?主と?取?…
[南東面]_右、な者゙(ば)り、み(三)…(埋没)
[北西面]_文字なし?
[南西面]_文字なし
古道の雰囲気のある道をしばらく登ると木橋のたもとに2つの道標が立っています。
明治26年(1893年)の指差し道標。ここから山越えのため左斜め上を指差しています。伊賀の石工、山中さんの作です。
[正面]_(左斜め上指差し)、室生道
[右面]_明治廿六年八月
[左面]_イガ石工山中亀○(吉?)
[裏面]_文字なし
(本体) 高57cm×幅16.5cm×厚14cm
(台石) 高18cm×幅53cm×厚40cm
となりに立つ西国巡礼供養塔道標(明和3年・1766年)。正面上部に阿弥陀三尊の種子が刻まれています。右側面には 「ひだり むろうみち」 とあります。となりの指差し道標より127年も前に建てられたものてす。この道が長く利用されていたことの証でもあります。
[正面]_(梵字(サク・キリーク・サ))、
西國巡禮(礼)供養塔、當村、講中
[右面]_ひだりむろうみち
[裏面]_爲二世安樂也、
明和三丙戌年、九月十五日
[左面]_文字なし
(本体) 高100cm×幅52.3cm×厚26cm
(台石) 高24cm×幅93cm×厚55cm
息つぎの井戸。昔は飲めたようです。
峠の茶屋跡(標高約400m)にはお地蔵さまが祀られています。
しばらく進むと木橋があり、三十○丁石があります。三十丁か三十一丁ぐらいですか。
[正面]_(梵字・カーン)、三十…(埋没)
[他面]_現状では文字は確認出来ず
寸法 : 高46cm×幅17cm×厚16.5cm
道はつづら折れの急こう配になり、一気に100mほど下ります。急斜面の途中に三十五丁石が立っています。
三十五丁石。こちらは和州の片平村(現山添村片平)と、伊州の矢川村(現名張市矢川)の講が共同で建てたものと思われます。
[正面]_(梵字・カーン)、三十五丁
[左面]_和州(大和国)、
片平村(現山添村片平)…(埋没)
[右面]_伊州(伊賀国)、
矢川村(現名張市矢川)…(埋没)
[裏面]_文字なし
寸法 : 高105cm×幅17.5cm×厚17.5cm
県道28号に降りてきました。ここからは県道を室生川に沿って進みますが、明治25年の地図ではこの先で川を越えて室生寺まで川の左岸を進み、現代の仙人橋付近では崖の上を通るルートが描かれています。次回はその崖上ルートを探索してみようと思っています。
室生火山群っぽい地形になってきました。室生寺はこの火山性の地形を利用して建てられています。ここから県道を離れて右の道を登っていきます。
室生寺駐車場の端には石仏などが祀られています。
その傍らに四十六丁石(文政4年・1821年)が立っていました。伊賀の治田村の方が身内の供養のために建てたものでしょうか。右面には「南無阿弥陀仏」と刻まれています。最初、室生寺から伊勢本街道の高井宿へ出る西側の参道の丁石?とも思いましたが、頭頂部の形状から見て大師の道の丁石でしょう。また、四十六丁石と壹丁石だけに紀年銘があります。
[正面]_(梵字・カーン)、四十六丁
[左面]_(梵字・ア)、法栄妙塵信女、
伊州、治田村○…(埋没)
[右面]_(梵字)、南無阿弥陀仏
[裏面]_文政四巳五月廿八日、俗名、おかめ
室生寺入口の太鼓橋。
太鼓橋手前に立つ「女人高野室生山」と刻まれた寺号標を兼ねる道標(文政2年・1819年)。これが大師の道の最終丁石(50丁石)となるようです。三本松長瀬の初丁石と同じく丁石の発願主の名が刻まれています。側面には、室生寺への3本の参道(青越伊勢街道の三本松長瀬と大野から、伊勢本街道の赤埴から)の起点までの距離が刻まれています。
以上、大師の道の丁石と道標、全17基をひとつずつ紹介しました。
当日歩いた詳しいルートは、「大師の道と室生古道、道標と丁石めぐり」 (YAMAP) をご覧ください。
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(記事編集)
<2020/4/27 追記>
<2021/9/11 補筆・写真追加>
<2021/10/19 補筆・写真追加>
<2024/4/27 補筆>