古い記事をリニューアルしました。(2024/1/6)
広陵町三吉の厳島神社境内に移設保存されているうちのひとつ。
[南面]_右、大坂、国分、
左、すぐ、上の太子、下田、道
[北面]_施主、…(吉岡?(または當邑)、○之?)
(※枠内は別の日に撮影した写真を読みやすく加工したもの)
[西面]_文字なし
[東面]_文字なし
頭頂部の形状。
厳島神社入口右側の灯籠の背後に3基の道標が移設保存されている。
厳島神社に集められた3基の道標。各記事へのリンク(道標-A・道標-B・道標-C)
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馬見丘陵の東麓の三吉付近は、関屋で長尾街道と分かれて馬見丘陵を越え田原本、三輪方面へ通じる田原本街道と、高田から法隆寺方面へ通じる広瀬街道などが交わる場所で、疋相にはかつて役場があり馬見村道路元標が置かれていた(現在は広陵町疋相の祐福寺境内に移設)。三吉の大垣内地区にある厳島神社の入口には近辺の街道筋から集められた3基(道標-A・道標-B・道標-C)の道標が保存されている。
広陵町史(1965年)P60に「馬見丘陵道標」として真美ヶ丘ニュータウン造成前の馬見丘陵の分岐に立つ2基の道標(角柱型と自然石型)の写真が載っているが、そのうちの角柱型のものと裏面の模様や窪みなどがほぼ一致するためこの道標ではないかと思う。
明治41年の地図上では、広陵町内の田原本街道(大坂街道)上のおもな分岐地点は、真美ヶ丘中学校の東約160m(馬見中2丁目集会所のすぐ東)辺りと、真美ヶ丘中学校の北西角から西約60m(信号の少し東)辺りと、真美ヶ丘第二小学校の校舎のすぐ北(カットスタジオJOY)辺りの3箇所になるが、同書の写真と昔の航空写真などから判断して、元は真美ヶ丘中学校の北西の田原本街道(関屋・国分・大坂方面)と下田・穴虫峠・上ノ太子方面への道の分岐にあったものと推測する。「右 大坂 国分 左 すぐ 上の太子 下田」の案内とも合致する。
何か分かれば追記・補筆していく。
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・各面の内容
[南面]_右、大坂、国分、
左、すぐ、上の太子、下田、道
[北面]_施主、…(吉岡?(または邑)、○之?)
[東面]_文字なし
[西面]_文字なし
寸法 : 高135cm×幅24.5cm×厚17cm
●大きな地図で見る
<2015/7/20 初投稿>
<2018/7/28 写真更新・補筆>
<2024/1/4 補筆>
<2024/1/6 リニューアル(写真更新・補筆)>