古い記事をリニューアルしました。(2024/6/20) 




慈恩寺共同墓地への登り口に立つ。共同墓地内にある天誅組志士の前田繁馬と関為之助の墓を案内している。 
[北面]_天誅組烈士之墓、從是、十間 



[西面]_大正七年五月日建之 



[東面]_慈恩寺有志者 



[南面]_文字なし 



頭頂部の形状。



自然石の台石を持つ。







東側から。



西側から。



北側から。



墓地からの眺望。肝心の志士の墓を撮影した(撮影したはず)写真を探しているが見つからない。


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初瀬街道(伊勢街道)の初瀬川(大和川)旧佐野橋のすぐ南側、慈恩寺共同墓地(慈恩寺地区墓地)への登り口に立つ。共同墓地内にある天誅組志士の前田繁馬と関為之助の墓を案内する道標で、大正7年に地元の有志によって建てられた。

坂を登り近鉄線の踏切を渡るとすぐ墓地で、志士の墓はそこから少し登ったところにある。

「天誅組烈士之墓」まで「從是十間」。1間は約1.8m。道標の建立当初は街道沿いの登り口にあったと思われるが、現在は登り口から墓まで約150mほどになる。当時は近鉄線(参宮急行電鉄)(昭和4年10月27日に桜井~長谷寺間が開通)の開通前であり、改変前の元の地形を考慮してもおおむね合っている。

文久3年(1863年)9月24日、東吉野の鷲家口(現在の小川)での幕府軍との最後の戦いに敗れて天誅組は壊滅した。前田繁馬と関為之助は逃亡中の9月26日に慈恩寺で捕まり銃殺されたという。その後慈恩寺の村人によって共同墓地に埋葬された。墓石の裏側には「文久三癸亥九月廿六日歿 於十市郡慈恩寺」と刻まれている。

桜井市倉橋の多武峯街道沿いにも、前田繁馬らと同日に桜井市下居で捕まり自刃した天誅組の楠目清馬の墓(すずめ墓(雀墓))を案内する道標が立てられている。


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・各面の内容 

[北面]_天誅組烈士之墓、從是、十間 
[東面]_慈恩寺有志者 
[西面]_大正七年五月日建之 
[南面]_文字なし 


建立年 : 1918年 (大正7年) 
寸法 : [全体] 高187cm 
          [本体] 高167cm×幅21cm×厚19cm 
          [台石] 高20cm×幅80cm×奥57cm 


慈恩寺共同墓地登り口 (初瀬街道(伊勢街道)) 



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<2015/7/3 初投稿> 
<2024/6/20 リニューアル(写真更新・補筆)>