とある方の体験です。

送られてきたいくつかの写真は身近な存在の家族の風景でした。

それは幼い子から大人まで、家族全員で一緒に今を乗り越えていこうとする日常の仕事風景。

大変だろうという中で笑っている生き生きとした風景でした。

それを見た彼女は、自分の子供にはこういうことをしてやれなかったな…、してやれたらよかったのだろうけども…、出来なかったな、思いもつかなかったな、と思ったのだそうです。

我が子のことを不憫に思う、母親としての自分がこういう感じだから…、出来ていないから…、と話されました。

そしてそう考えた直後に自分の中でもやもやっとしたものが残るのだと。

それが何なのか、自分が出来ないからスッキリしないままなのかと…続けられました。

 

 

さて、そのお話の後に、いくつかの工程を経て、

その外に見た家族の中の幼い子供の状態になっていただきました。

味わってもらったのです。そこには作業の中にある遊びのような楽しさや、お互いの存在を認知している安心感、喜びなどがいっぱいいっぱいありました。

始めて感じた感触だったそうです。これまでの長い人生の中で。

自分が考えもせずただただ楽しいって思えることがあるだなんて、と。

 

彼女がようやく気付いたのは、親として自分の子供に与えられなかったってことにこだわっているのでは無かったということです。

その家族の中に居る幼い子供に自分がなりたいって、そう思っている自分にたどり着いたのでした。

 

彼女のワークはゆっくりと続いていきます。

これから自分が本当に感じていたこと、思っていたこと、というのを少しずつ受け取っていきます。

見たことの無い風景に外で出くわす度に、親として与える側として出来ていないと悲観し、親であるはずの自分の言動を否定してきていたことが、実は自分の中にある「外に見る憧れ、欲しかったもの」だったということに、気が付きはじめてしまったのです。

 

ずっと幼少期からのことを思い出せず、その理由もわからず不思議だとおかしいですよねと、自分のことを笑いながらあっけらかんと言っていた彼女の、とある頃から止まってしまったままの時間が、今動き出し始めたのでしょう。

 

 

 

 

 

 

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