紡希がまだ妻のお腹にいた頃から、決めていたことがある。

 

「生まれ来る我が子から可能な限りたくさんのことを学びとってやろう」

 

 

特に新生児の時期はあらゆるカテゴリーの人間の中で、ある意味最強の状態。

成長率や吸収力は無敵レベルで高く、

“ライバル”としてこれ以上の存在はないと思えたからだ。

一方で、新生児は人間の最もナチュラルな様子を
体現してくれる存在なのでは? とも思った。

自分は何者なのか? 

自分の起源はどこにあるのか?

そういったものを我が子が示してくれるのではないかという、

極めてエゴイスティックな期待があったことも否定できない。

 

 

実際に生まれてみて、そういう想いで接してみると、

確かに学ぶことが多いことに気づく。

たとえば自分のことを伝えようとする気迫。

これはもう化け物級にスゴイ。

 

 

「寂しいから抱っこして欲しいの!」

「ウンチが出て気持ち悪いからなんとかしてよ!」

「オッパイをちょうだい!オッパイをちょうだいと言ってるでしょっ!!」

 

 

こういった気持ちを精いっぱいの泣き声と歪んだ表情、

限りなく透明な涙や宇宙を切り裂かんばかりの不規則なバタ足やバタ腕(?)で表現する。

彼女は手段が限られている中でも常に擦り切れそうなほど全力なのだ。

 

 

全身全霊をかけて何かを伝えようとする姿勢を、

40歳の俺は果たして見せているだろうか?

自分にとって本当に大切なことを、

他者にも理解してもらおうとする努力を怠らずに過ごせているだろうか?

自戒の念が募っていく・・・。

 

 

別の言い方をすれば、

彼女は「生きる」ということに関して切ないほど必死であり、

本気であり、直線的なのだということ。

その姿はあまりにも眩しく、

我が身を振り返れば恥ずかしさでいたたまれなくなるばかり。

なりふりかまわない「がむしゃらさ」みたいなもの、

言わば生に対する執着を、

我々はみんな生まれた瞬間からもっていたはずなのに、

余計な経験や知恵を蓄える過程で、

そのキラキラした美しいエネルギーを

自ら薄めていってしまっているのかもしれない。

そんなことにも思い至らされる毎日だ。

 

 

そして昨日、紡希は初めての予防接種に臨んだ。

1歳以下に受けるべき注射の中では最も痛いと言われる一本を受けた瞬間、

それまでの2本とは明らかに違う鋭利な苦しみを泣き声に滲ませた彼女を見て、

親としてドキリとした。

その痛みを自分のことのように感じたのと同時に、

何かあったときにこの子を守ってやれるのは

俺たち夫婦しかいないという

あたりまえの理を突き付けられたようで身が引き締まった。

 

 

彼女にとっては歴史的な痛み。

きっとしばらく泣きやまないだろう。

夜中に思い出してまた苦しくなることもあるかもしれない。

仕方ない、仕方ない。

そう思って見つめていたのだが、

数秒後、紡希はいきなり泣きやみ、

何事もなかったようなキョトンとした表情に戻った。

その後も医者に恨みを抱くような素振りはなく、

恐怖をトラウマ化するような弱さも見せず、

彼女はもう次の瞬間を精いっぱい生きていた。

 

 

「ポジティブ」などという陳腐な言葉では括れない、

雄々しさにも近い清々しさ、あるいは潔さ。

まるで「今と未来しか見えない」と豪語せんばかりの彼女の様子に、

ただただ頭が下がる思いだった。

 

 

40男の生き方さえ見直させる新生児の存在感。

しばらく鍛えていただけそうだ。

 



(了)