佐藤可士和さんが以前、銅鏡を磨く体験をして
気づいたことを書いておられました。
始めはガサガサ粗く傷つけるようにしていくから、こんなことしていいのかなあ?
とドキドキしながら磨き始めたのだけど段々と滑らかになっていって
そのうちとても美しい表面が表れてきたと。
三宅洋平さんがやっている事は、このガサガサ磨きにあるんじゃないかと思うのです。
価値のあるものに仕上げていく為には、ここで止まらずに磨き続けなくては意味がない。
しかし今の状況、どうなんだろう?
熱く動かされている人。こき下ろす人。
お互いの考えは、ふむふむと思うことがあるんです。それぞれに。
でも、そこから先へ進んでいないように見えませんか?
それぞれのコミュニティーの中で熱く、「むこうはバカだ」と言っている。
そこでは同じ考えの人がうなずいてくれるから、どんどん勢いがついて前へ進めるんですね。
でも自分一人で見知らぬ考え方に直面しても、その勢いは削がれないかな。
自分一人で違う考えに直面して、ガサガサひりひりしても磨き続けないと、
価値は見えてこないんじゃないだろうかと思うのです。
だから、「とにかく今回だけは投票に行って「三宅洋平」と書いて!!」
と誰かにお願いするのも
「あんなふわふわした事だけ言って煽るヤツ、
それに乗るヤツらは民度が低くて大ッ嫌い」と拒絶するのも
同じ。
だって、ヒリヒリしてないから。
守られてるでしょ?同じ考えの人たちに。
きついけど、かき乱されないと意味がないと思うのです。
彼らが投じた一石は、ガサガサ磨きを始めた点で意味があると思っています。
でも、磨き続けないと文字通りの「フェス」で終わってしまう。
この投げられた石から得るべきは
思考停止の「結束」ではなく、一人でざわつき続ける事だと思います。
HP
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