ご訪問ありがとうございます。
プリズム主宰 田中つるみ です。
・・・・・・
今日は、終戦の日
沖縄ではこの日以降も戦争が続いていたという事実...。
今日という日を、複雑な想いで迎えた人もいることでしょう。
私は戦争のことは知らないから、偉そうなこと言えないのだけれど。
戦争体験者も高齢となり年々少なくなっている現実に。。。
どんなカタチでも良いから語り継ぐ!私にできる小さなこと。
として、私のオバァー(曾祖母)とオジィー(祖父)の戦争体験(沖縄戦)
を綴ろうと思う。天国の二人(3年前に他界)も「OK」だそうです!(笑)
ただし、決して苦労話をするつもりはありません。ご了承くださいませ。
それは、これを読んで下さっている方は平和を願う人だと思うから。
ただ戦争を単純化したくないし、学ぶことが沢山あると思うので。
少しでも日常で考える時間を、誰かと共有できたら嬉しく思います。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
~オバァーとオジィーの戦争体験(沖縄戦)より~
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
私のオジィーは、沖縄で軍事教育を受け、兵隊としてヤリを持って
戦えと言われた(当時19歳)。銃が足りず、前列の兵士のみが
持たされていたのだそう。オバァーは、夫を戦場に送り出し。。。
ある日突然、夫の友人が訪ねてきて「遺体を見つけたから、
わかるように隠して置いたよ」と言われ、日をみて遺体を引き取りに
行ったそう。こうして、兵隊として送り出した夫を亡くし、続いて息子を
送り出し、さらに、戦時中に産んだ生後間もない我が子が日に日に
衰弱して、抱いた腕の中で死んだ。それでも、残された子どもたちと
共に戦地を逃げ惑って生き抜いた。それは、戦争が終っても続いたそう。
オバァーは、当時のことを、「毎日、毎日が、まるで地獄を歩いて
いるようだった・・・」そして、「私は、まだ良かったさ。旦那さんの
遺骨があるから」という、遺骨の戻らない遺族に配慮した言葉も
涙が滲むような目で息を詰まらせながら語ってくれた。
二人が戦争体験を詳しく話してくれたのは、随分経ってからのこと。
ちょうど、戦後50年目を迎えたあたりからで、孫やひ孫たちは、
オバァーが生後間もない子どもを亡くしていたことを初めて知った。
そして、私もオジィーが生きていなかったら。。。この世には存在しない。
と思うと、大袈裟かも知れないけれど、私自身も戦争の生き残り...。
と、話してくれた戦争体験を通じて思うのです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
沖縄にある
「命どぅ宝(ヌチドゥタカラ)」という言葉。
何よりも“命が大事”ではなく“命こそが大事”ですよという意味。
言葉では伝え切れない重みがある言葉...
命どぅ宝
この世に無駄なものなど何もない
全ては自然の摂理でつながっている
我々人間は
大自然の中で奇跡的に
「生かされている」のである
その命に勝るものはない
という、もともとは琉球最期の王、
尚泰王(しょう・たいおう)が詠んだ琉歌だと言われています。
生きている、命があるだけでそれが宝。沖縄の人たちが、
生き抜く為に呟いた言葉。生き延びたから、生き抜こう!
否定的でありながら、諦めのようでありながら、力強い言葉。
究極的に生き抜く力、それを意味する言葉なんだと思う。
当たり前のことだけど私たちのほとんどの命は、父親と
母親の一部が神秘的に出会って この世に存在するもの。
“一人ひとりが大事な命の繋がりで生きている”という証。
私は「一人ひとりの命は尊いもの」と伝えるこの言葉を、
いつも心に置いておきたいと思いまーす
本当に今日の空は、眩しく晴れた青い空でした。
公園にて、子どもたちが思いっきり高く!
広い空を目がけて楽しくブランコを漕げる世界であって
ほしい☆と我が子の姿をみて想ったこと。
命どぅ宝
こうして、安心して空を見上げられることに感謝です。
最後までお付合い頂き、ありがとうございます。