より黄金比に近い近畿の五芒星

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前回の記事で近畿の五芒星のポイントを少し替えると南北の高さが合致した五芒星になりました。しかし西側のとんがりが他のとんがりよりかなり短い五芒星です。図形的により綺麗な黄金比になるポイントは桃川村の神宮寺[兵庫県淡路市江井1354]だと思われます。かなり正五角形に近く緯度は数メートルから数十メートル程度しかずれていないので、5か所の、より後世に建造された建物の位置による宗教的な意図を感じます。

より黄金比に近い近畿五芒星

元伊勢外宮と熊野本宮大社からの距離と内宮の緯度

西側の短い部分以外の各ポイント間隔は110.06km~111.11km。元伊勢外宮と熊野本宮大社から110.06km~111.11kmで、かつ、伊勢神宮内宮と同じ緯度の場所が綺麗な黄金比の近畿の五芒星を形成する場所だと思われます。

近畿の五芒星の推理1

その地点はこのようになります

近畿の五芒星の推理2

熊野本宮大社真北の線と伊勢神宮内宮真横の線との交差点から内宮までの距離と同じ距離の場所

熊野本宮大社真北の線と伊勢神宮内宮真横の線との交差点(135°46'24.37"E 34°27'18.67"N)から内宮までの距離約87kmと同じ距離の場所を探しました。下記のように、桃川村の神宮寺が一番近いポイントであるとわかりました。

近畿の五芒星の推理3

熊野本宮大社真北の線と伊勢神宮内宮真横の線との交差点(135°46'24.37"E 34°27'18.67"N)から距離をとった、伊勢神宮内宮の場所です。

近畿の五芒星の推理4

神宮寺が該当します

近畿の五芒星の推理5

その他のポイントからだと2.9kmくらいずれてしまいます。

近畿の五芒星の推理6

筆者は神宮寺と推定しましたが、妙京寺も元伊勢と熊野から等距離で、かつ、内宮と同じ緯度にあるので人為性を感じます。これらの宗教的意図の推定については、また後日。

いわゆる近畿の五芒星とレイラインについて調べてみました

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日本には無数の神社仏閣・祠があるので図形は色々と書けるのですが、927年成立の延喜式の式内社や1000年以上前の古くて霊威のある神社仏閣に限れば、もしかするとなんらかの古代の人々の意図が見えるかもしれません。

近畿五芒星とは

近畿五芒星が初めて掲載されたのはムー1990年8月号220ページに掲載されたという北卓司(HN:森野奥人)の説のようで(後に書籍化「古代日本にカバラが来ていた―現代に及ぶ預言の謎」,鹿砦社,北卓司1995年5月ISBN-13: 978-4846300807)、その構成は「元伊勢内宮―多賀―熊野本宮―伊勢内宮―伊吹山」でした。多賀は淡路島の多賀で、ネット上では伊弉諾神宮があてられているようです。元伊勢内宮ではなく元伊勢外宮があてられているバージョンもあります。

緯度を合わせた新近畿の五芒星

しかしこれではかなり南北がずれてしまうので、本当に「五芒星」の形になるのかどうか調べてみると、
元伊勢内宮ではなく元伊勢外宮豊受大神社へ変更するだけでなく、
伊吹山を伊夫岐神社へ
伊弉諾神宮をその別当寺院の妙京寺へ変更すると南北の緯度がほぼピッタリ合致しました。不思議に思いました。

新・近畿の五芒星

1.伊夫岐神社(式内社 多多美比古命) 35.402554, 136.376606
2.元伊勢外宮豊受大神社 (式内社・豊受大神) 35.402599, 135.151411
3.妙京寺(式内社・伊弉諾神宮の別当寺) 34.455147, 134.853531
4.伊勢神宮(内宮)   34.455174, 136.725185
5.熊野本宮大社(式内社熊野坐神社 家都美御子大神
   熊野本宮大社御社殿 夫須美大神 33.840473, 135.773506
   熊野本宮大社旧社地 大斎原 33.834403, 135.774399
   熊野本宮大社東御前 天照大神 33.840574, 135.773849
   真名井社 天村雲命    33.833897, 135.770509

近畿の五芒星がより黄金比に近くなる「神宮寺」

近畿五芒星は伊弉諾神宮別当妙京寺から兵庫県淡路市江井の「神宮寺(34.455472, 134.821253)」へポイントを移すとより黄金比に近くなります。

新近畿の五芒星の真ん中を貫く神社仏閣ライン

 熊野本宮大社から真北のラインと、そのラインが行き当たる福井県小浜市の式内社・阿奈志神社(大己貴命)と末社・姫宮神社から南へ下るラインが近畿の五芒星の中心を貫きます。

奈良時代から平安時代に最も栄えた地域で、天狗さんの鞍馬山の由岐神社(大己貴命,少彦名命) 、式内社下鴨神社((賀茂建角身命)奈良殿神地天鳥舩)・式内社 出雲井於神社)、建仁寺新熊野神社(伊弉諾尊)、東福寺、式内社伏見稲荷大社(宇迦之御魂大神)、桓武天皇陵筒城宮跡、秋篠寺、橿原市内の式内社(冨都神社(冨都大神)、子部神社木葉神社(木花開耶姫)、天太玉命神社(天太玉命)、河俣神社(鴨八重事代主神))小子部蝶嬴神社(雷神)、ほうらんや火祭りの春日神社、式内社波比売神社(水波能賣命)等を通過します。

近畿の五芒星の真ん中の神社仏閣・洛中編

近畿の五芒星の真ん中の神社仏閣・奈良県編

いわゆるレイラインについて

1980年NHKで放送された仏像写真家の小川光三さんが著された「大和の原像―知られざる古代太陽の道」,大和書房,1980年,の北緯34度32分レイライン。レイライン(Ley line)の元は英国のAlfred Watkins氏(1855 – 1935)の著書The Old Straight Track(1925)のようです。

例えば「出雲大社、大山、元伊勢、竹生島、七面山、冨士山、寒川神社、玉前神社」というレイラインですが、緯度からみれば2つにわかれ、竹生島や七面山や富士山は入れないと思われます。

出雲大社-冨士御室浅間神社奥宮レイライン

式内社出雲大社(大国主大神)-式内社出雲路幸神社(猿田彦命 天鈿女命)-式内社能義神社(天穗日命)-元伊勢外宮豊受大神社(式内社比沼麻奈爲神社)-伊夫岐神社と出雲井-身延山-冨士御室浅間神社奥宮(旧本宮)のレイラインは「出雲」と名の付く箇所が3か所あります。

出雲大社レイライン

熊野大社-玉前神社レイライン

式内社熊野大社(素戔嗚尊)-大山-式内社寒川神社寒川大明神)-式内社玉前神社(玉依姫命)レイライン
熊野大社、寒川神社、玉前神社レイライン

富士山レイライン

富士山の剣ヶ峰は式内社南宮大社(金山彦命)、式内社前鳥神社(菟道稚郎子命)とほぼ同じ緯度のようです。
前鳥神社、富士山剣ヶ峰、南宮大社レイライン

熊野本宮大社-宗像大社レイライン

近畿の五芒星の新しいパージョンを作成したので、熊野本宮大社からのレイラインを探してみました。
式内社宗像大社市杵島姫神)が丁度該当しました。

伊勢神宮内宮-葛城山-鷲原八幡宮-対馬の和多都美神社レイライン

近畿の五芒星の伊勢神宮内宮からのレイラインも調べてみました。蛇穴の野口神社(神倭伊波礼毘古命)、葛城山、式内社伊弉諾神宮の別当・妙京寺、鷲原八幡宮-ミニミニ火山の笠山のふもと-対馬の和多都美神社(対州神社誌によると神功皇后・瀧津島姫命・湍津島姫命・市杵島姫命)のレイラインが形成可能です。

近畿の五芒星とトポロジー

これら延喜式神名帳に掲載された主に明神大の神社や仏閣で形成された五芒星。緯度が合っているだけに人為性は感じるのですが意図がわかりません。

五芒星といえば陰陽師安倍晴明、安倍晴明といえば天文博士。天体で五芒星といえば、その合で五芒星を描く金星を思い浮かべます。日本神話は星の神が少ないのですが、仏教の明星天子や記紀の星神香香背男や先代旧事本紀の天津赤星などが思い出されます。妙見信仰では北極星と明星(金星)が同一視されることもありますが、中央の平城京の帝を我々の視線(地球)とすると、その周辺を巡る金星の明けの明星や宵の明星がみられる動きのようでもあります。

Astronomy with MicroStation Orbit of Venus Dance of Planets

金星と地球と太陽のダンスの軌跡では、8つの星印が描かれます。道教では8が特別な数字で、日本神話も8という数字が重要ですが、金星と何か関係があるのでしょうか?マヤ歴では金星が基準となっているようです。
金星と地球と太陽のダンス、8つの星

金星と地球と太陽のダンスの軌跡では、3つの五芒星が描かれます。
金星と地球と太陽のダンス

昔々は太陽の周辺を回る金星と地球という考え方はたぶん日本ではなかったはずですが、もし太陽を中心と考えても五芒星は描けます「5会合周期と8年がほぼ等しいということは、金星と会合するのはたかだか5か所に限られるということを意味します。」国立天文台「金星日面経過」より引用

平城京-平安京を守るお祈りのようなものが、トポロジカルな配置に込められたのでしょうか??

レイラインとトポロジー

こちらも式内社で構成され、かつ、明神大の神社が多く、偶然にしてはとても出来過ぎなような気もしないでもありません。距離が長いので旧街道が関係した自然な物とも思えません。ただ、直線なだけに偶然の可能性も捨てきれず、まだなんとも言えませんが、その並び方になんらかの祭祀的意味合いが観てとれるのであれば、個々のケースでは意味があるものも在るかもしれないと感じました。レイラインはまだ作ったものがあるのですが、それはまた後日。

アテルイのお墓の続き、筆写個人の説です。

「斬於河内国椙(?榲?)山」日本後紀

河内国榲山はどこ?

斬られた場所とお墓は別の場所かもしれません。交野郡が最も京の都に近く、可能性は高いと推測しています。

伝・阿弖流為の墓がある旧交野郡坂村の宇山バス停前・牧野公園(元は交野郡に2つしかない式内社・片埜神社敷地内。もうひとつの式内社・久須須美神社も隣接していた)は、昔は牧野村でした。

その牧野村の飛び地が山城国と河内国の国境にあります。粘土質の土です。周囲には楠葉平野山窯跡美濃山瓦窯跡群がある地域です。この飛び地は牧野村に合併された宇山村と養父村のものです。伝・阿弖流為の墓のすぐ近くにも牧野阪瓦窯跡があります。(赤枠の☆=片埜神社と伝・阿弖流為の墓)


河内国交野雄徳山とは?

阿弖利為が没した802年の6年後、宮中御器の陶土採取のため河内国交野雄徳山への埋葬禁止のお達しがでますが、現代では雄徳山は石清水八幡宮がある「男山」で京都府のはずだというイメージなのに、河内国と記載されています。

「禁葬埋雄河内国交野雄徳山。採造御器之土也。」類聚国史,巻七十九大同三年正月(808)

牧野村の飛び地がある場所はその「男山」の裾野にあたるので、その頃河内国交野雄徳山と呼ばれていた可能性があります。京都府側には太平記の登場人物が眠る大きな墓地もあります。

牧野村飛び地の南東に四人山がありますが、中井家文書・石清水八幡宮全図にも四人山やニゴリ池は描かれています


この牧野村(の中の旧宇山村・養父村)飛び地あたりが元々アテルイが斬られた地では?と推定しています。終戦後に送電線が引かれるのですが、その際に飛び地の元の地の旧牧野村の式内社・片埜神社の旧敷地である牧野公園の古い古墳山の上に弔いの石碑が牧野村飛び地から引っ越してきたのではないか?と推定しています。旧宇山村や旧養父村や養父山にも神社があったのですが、周辺の神社は九頭神の式内社・久須須美神社も含めて片埜神社へ合祀されています。

もしくは、斬られた場所である牧野村(の中の旧宇山村・養父村)飛び地から離れた牧野村(の中の旧宇山村・養父村)村内の神社でいつからか弔いのための石碑が建てられるようになり、それが明治維新後の合祀で式内社・片埜神社旧敷地内の牧野公園へまとめられたのではないか、と推定しています。

本当にアテルイは処刑されたのか?

疑問です。日本後記は散逸して日本略記にしか記録が残っていませんが、それぞれの版でこの部分の漢字が異なっていて、中には空白のものもあるからです。中には朱書きで「置水」と書いてあるものもあります。「置水之情 」の故事の通り、表だっては処刑されたようでいて実は京から離れた桓武天皇の遊興の地で反省を促されていたのだとしたら?

聖武天皇死刑禁止の詔

神亀2年(725)12月聖武天皇は死刑廃止の詔を下しました。

神亀二年(725)十二月庚牛。(聖武天皇) 詔曰。死スル者ハ不(㆑)可(㆑)生。刑セラル ル者ハ不(㆑)可(㆑)息(イコフ)。…見禁囚徒。死罪宣降徒流。流罪宣(㆑)従(㆑)徒。
〔殺された者は生き還ることも、刑を科せられる者が憩うこともない。死罪を宣告されたものは流罪に、流罪を宣告されたものは懲役刑に。〕続日本紀

アテルイは死罪の斬ですが、この聖武天皇神亀二年十二月庚牛の詔に従えば流罪です。818年嵯峨天皇が改めて死刑を実質停止しますが、検非違使等の現場での私刑はあったという二重基準だったようです。そこから逆に考えると、都にて公文書で死刑と記されたアテルイは死刑判決によりおのずと流罪扱いになったと思われます。坂上田村麻呂が現地で殺さず都へわざわざ連れ帰ったのは、都で死罪を宣告されれば流罪になれるからだったのではないでしょうか。