坂の上の雲にでてくる曽祖父 | ウィーンでいいの

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子供達がやっている英作文の練習で家系について書くという課題があったので、しばらく前に親戚からいただいた自費出版の本を引っ張ってきた。その本には「戸塚環海伝」とある。初版は戸塚武比古によるもので、昭和46年。自分が持っている本は、戸塚祐夫編で、平成十八年十一月四日発行、文港堂印刷(http://www.ann.hi-ho.ne.jp/aseto/ だろう)とある。

戸塚環海

安政元年(1854年)11月11日生

昭和7年(1932年)1月31日没・享年79才

海軍軍医総監・従4位・勲2等・功3級

 

その本によると戸塚環海は海軍軍医総監であった戸塚文海の養子として戸塚性を名乗るまでに何度か名前を変えている。生まれは、三河国八名郡賀茂村定重(現在の愛知県豊橋市賀茂町宗末)で、林芳太郎と名づけられた。

 

戸塚環海は多くの「先生」の下で学んだらしいが、最初は豊川の対岸にあった草鹿砥近江守宣隆先生の門に入って読書習字を学び砥鹿神社に額を残しているらしい。次は、吉田藩(豊橋)の儒臣、小野湖山先生について漢詩を学んだ。

 

その後、草砥鹿先生が京都皇学所に講官として赴任した際に愛弟子として林芳太郎はついていったらしいが、草砥鹿先生が急逝し、その後実家が没落した。日当を稼ぎながらも本多匡先生の小竹園という漢学塾にて勉強を続けた。

 

賀茂神社の加藤家の一族に明治新政府の役人となった大判直清に身を寄せた後、、鹿児島出身の英医の石神豊民先生の学塾に塾僕として住み込んだ。ここで医者になる決意をしたらしい(自分の親戚に医者になれといわれたのはこれが始まりか。)

 

明治5年に陸軍・海軍が成立すると、陸軍はドイツ流、海軍はイギリス流の医風があったらしい。ここで環海の海軍への道が決まることになる。

 

このころ戸塚文海は蘭医ボードウィンの教育を受けたが、徳川慶喜の奥医師となり、勝海舟の勧めで海軍に出仕し、まもなく海軍病院長となる。

 

一方、石神先生は、明治6年に海軍郡医療学舎の開設に関わる。この軍医療学舎に入学するために勉強に励んだが、最初の11人には入れず、補員募集の21名にも入れず、最後の補員として入学した。このときの名前は石神豊民先生の豊、字なの良策の策をいただいて、林豊策と改名した。

 

海軍軍医療学舎の生徒として、セント・トーマス病院学校(現在はSt. Thomas Hospitalで、学校はKings College Londonの一部になった。)アンデルソン先生の教育を受けた。林豊策はここで、戸塚文海の眼に留まりその5年後には正式に養子となり、戸塚環海に改名。明治12年林豊策は主席卒業し、明治14年には海軍小軍医(少将)に昇進した。

 

同年に、自費で27才で渡英し、その数年後に官費留学生となり、計7年英国に滞在した。渡欧は明治14(1881)年6月19日出港、8月4日にマルセーユ着、列車でリヨン、パリ経由でロンドンにはいった。着いたのが夏休みだったこともあり、ガーンジー島などを訪問した。

 

医学をセント・トーマス病院学校で学び、英国での医師免状を1886年に取得した。同年ベルリンにてロベルト・コッホの下、病菌学を学んだ。コッホ教授のコレラ菌の発見はこの2年前だった。

 

34才で帰国した後すぐ、海軍軍医小監(少佐)となり、海軍軍医学校教官となる。また、渡部温の次女はなと結婚。明治天皇の御召艦の軍医長などを経験した後、明治24年に海軍軍医大監(大佐)となり、同時に横須賀海軍鎮守府軍医長兼海軍病院長となった。

 

明治28年に清国に対し宣戦を布告し日清戦争が始まると、大連、旅順口海軍根拠地に着任した。

 

同年、呉鎮守府軍医長兼病院長として赴任した。まだ鉄道が敷設されておらず、艦船を修理するドックも1つだけ、海軍軍医の定員も2名という小世帯で家族には過ごしやすかったとのこと。

 

明治29年には海軍大学校軍医部教官(現在の築地の国立がんセンター付近)、明治31年には復活設立した海軍軍医学校校長兼教官となった。

 

日露戦争が始まる前の明治35年には海軍軍医総監(少将)となり、佐世保鎮守府医務部長兼病院長になり、佐世保市長尾に家族で引っ越した。日露戦争中に日本海海戦で海軍は敵艦隊を全滅した際に、バルチック艦隊のロジェストウェンスキー提督が重傷を負い、佐世保海軍病院に捕虜の患者として収容された。この時の東郷司令長官、参謀秋山真之中佐、副官山本信次郎大尉と共に佐世保海軍病院に見舞いに訪れた。このときの様子が環海の姿と共に、海上自衛隊佐世保資料館保管の絵画に残されている(2003年時点)。そして、この場面が司馬遼太郎の坂の上の雲にでてくる。

 

明治38年に予備役に編入された後は、明治40年に戸塚外科医院を青物横丁駅付近に立ち上げ、その当時は外科はまだ見下されていたらしく、専門医院は珍しかったとのこと。この医院の手術室には消毒施設もほぼ完備しており、内臓手術を行うことを目指していた。この年に自分の祖父が生まれた。

 

また、長男、文卿がカトリック教神父になったことから、英語での情報が多く残っている。文卿は戸塚外科医院を聖ヨハネ汎愛病院と改名し、医業を続けた。これから小金井市の桜町病院(http://www.seiyohanekai.or.jp/sakuramachi-hp/)へ分院されて引き継がれている。

 

ちなみに、長男の文卿がカソリック神父になった理由が「Politics and Religion in Modern Japan: Red Sun, White Lotus」edited by R. Starrsに書いてある。

 

https://books.google.at/books?id=QLqADAAAQBAJ&pg=PA206&lpg=PA206&dq=%22totsuka+kankai%22&source=bl&ots=mVq1xckX66&sig=20myVttBBeCBn6ZyoxZpSaaeKlY&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjqyevPoObVAhUMYVAKHVEvD80Q6AEIKzAB#v=onepage&q=%22totsuka%20kankai%22&f=false

 

 

環海は子供達の教育に熱心に取り組み、昭和7年に他界した。

 

環海の情報は英語でも少し残っている。

 

これで、夏休みの子供達の宿題も終了で今週からすでに学校が始まった。