今に始まった事ではないが、外交における交渉が日本は下手だ。

尖閣諸島問題しかり、米軍基地問題しかり。

なぜか。


それはやはり軍事における圧倒的な抑止力の欠如が原因だと考えている。日本は実力行使ができない「自衛隊」程度のものしか持っておらず、かつ小さな島国だけに交渉に持ち出せるファクターも少ない。(ex.レアアース、石油などの資源、核兵器 etc)
命を惜しまず特攻をしかけた世界でも類を見ない戦法が恐れられ、GHQは日本に新たな憲法を制定し、実質上骨抜きにしようとした。

それから半世紀。
アメリカの思うとおりの情けない国家に成り下がった。

国民の国への忠誠心は薄れ、世界トップレベルの軍事技術(特にエレクトロニクス)をもっているものの、単なる輸出産業化。自衛隊の実務は国際消防署のようなものだ。


日本を取り巻く諸外国は、こんな日本と外交をすることを、『金持ちのボンボンと仲良くなっといて、ちょっと金を巻き上げてやろう』くらいにしか思っていないのではないか。


確かに世界唯一の核兵器被害国として、戦争の悲惨さ、核の悲惨さを伝えていくという重責はあるが、それは相手と対等に渡り合えるだけの力があってこそ成り立つ。そうでないとしたら、諸外国を圧倒的に凌ぐ知力を有するか、である。

さて、今の日本はどうか。政治家たちは私欲にまみれ、政策や決断はブレまくり、外からの圧力には土下座でもせんばかりの情けない外交。
当然である。


この関係性は、趣味が喧嘩と言って憚らないヤンキーばかりのクラスに、長者番付にのる父を持つガリ勉坊やを入れている環境に等しい。

この坊やに余程の交渉力や人を巻き込む力がなければ、待っているのはクラスメートへのお小遣い支給の日々か、登校拒否しかない。しかし、この坊やが懐に銃を持っていて、発泡するだけの肝が据わっていると分かれば、ヤンキーどもも軽はずみにイジメなどできないのだ。


あまりに腑抜けている今の日本。
対等に渡り合いたいのであれば、今こそ懐に刀を忍ばせるときなのでは。

過去の歴史ではあるが、『特攻も辞さない民族』というイメージを復興できれば、外交は今よりも遥かに潤滑に進む。

あ、私は右でも左でもありません。
ただ、ニュートラルに過去の悲劇を訴えるだけで平和理想論を唱えるだけでなく、自国の保身を考えて欲しいだけ。

このままじゃこんな小さな国、あっという間に海に沈むよ。
最近twitterばっかりで日記書いてなかったので。。。

まぁ、折角の記念なので残しておこうか、と。


ここ3週間ほど、週一日営業として未開のエリアで新規開拓をしているのです。
で、昨日営業活動3日目。とりあえず新規一社ゲト。

結構ガチガチにコミュニティ化している商圏かと思っていたけれど、そんな中にも理解を得られるお客さんもいるみたいで助かります。

まぁ、1社決まったってだけなんで、大して大騒ぎすることでもないんだけれど、やっぱり『実績』が残ったという事実は嬉しい。


まず、仮のゴール地点としては、一社そのエリアでシール関係をガメているライバルがいるので、そこからシェアを50%奪う事。正直営業力、提案力は負けてる気がしないし、品質に関しては確実に上をいってる。飽和している市場の取り合いが楽しめそうです。

田舎は地域の付き合いなんかもあるので、どこまで戦えるのかは未知数ですが、ゴリゴリ営業かけて行こうと思います。がむしゃらに。



うふふふふふふふふふ。

戦略考えてるだけで燃えてくる。
週末の朝礼で、社長が挨拶の時に、ふっと懐から小さな記事の切抜きを出して紹介した。

その業界紙の記事にはこんな記事が。私の記憶に残っている部分を抜粋したカタチなので、本文ままではないのだけれど、良い話だったので紹介を。





とあるラベル印刷の経営者勉強会のおりに、情報交換の食事の場が設けられていた。
まぁ、勉強会とは半分名ばかりの交流会。皆、酒も入って良い気分になり、仕事の話から自ずと日々の愚痴なんかに話は飛び火していた。

その輪に居た一人の社長がポツリ。


『先月さぁ。うちで長く頑張ってくれていた機械が一台壊れてな。送り出してやったとこなんだよ。』


その話に、一同神妙な面持ちになり、耳を傾けたそうな。



『そいつをキレイに洗ってやってな。酒かけて送り出してやったんだ。お前のおかげで今まで頑張ってこれた。。。世話になったな。おつかれさん。ってな。』


その話に、その場にいた社長は皆思うところあり、涙したという。





うちの社長も朝礼でこの記事を紹介した際、やはり目に涙を溜めていた。


この業界のある特定メーカーだけなのかもしれないが、新たな機械を導入する時に、日本酒を一本もってきてくれる会社がある。
それは、新たな機械の導入を祝う酒ではなく、その任を解かれた引退する機械の労を労ってやるための酒だ。ウデを磨かせてもらい、沢山の商品を送り出し、自分の生活を支えてくれた。そんなパートナーへの最後の杯。

大分前の話だが、社長が初めて導入した間欠輪転機という当時にしては画期的だった機械を導入した時に、「『これから、これで食っていかにゃならん。』と思って腹を括ったんだ」と言った。
その機械が故障によって新たな同系機と交代をする時に、やはり同じく綺麗に掃除をしてやり、酒をかけて送り出したのだという。その時に誰がどうだったなどとは言わなかったが、全員が万感の思いだったのだろうと思う。



その日の昼過ぎ、社長は1981年の商品のスクラップブックを持って、近くの社員に見せていた。
それは私の生まれた年のものだ。

29年前、まだ印刷技術は現在ほど熟成しておらず、今では考えられないような難しい手法を用いていた。当然仕上がりは今ほどクオリティの高いものでは無い。それでも、当時の中での最高品質を目指した努力がそこにはありありと滲んでいた。

現在の合成樹脂を用いた版ではなく、亜鉛の版で印刷しているため、印刷のプレスは強めにかかりがちで線の縁が膨らんでいたり、上手く色が乗り切っていないようなものも見られた。今では恐らくクレームで返品されるようなレベルのものもある。

しかし、その一点一点をどうやって印刷していたか、当時の技法や印刷方式を懐かしそうに語る社長の話に技術者は耳を傾け、当時の情熱に感銘を受けながら、レトロなデザインのそれらを見つめていた。



「あれ?これ、今も(発注)来てるやつじゃないですか。」
一人の技術者が言った。

何かのお土産に貼るようなメーカーの名前が入っただけのシールだ。
その1981年生まれのシールを見ていると、僕はソイツにミルクを飲ませてもらったような何とも言えない気分になった。





ボクと入れ違いで定年退職になった元工場長がいる。
彼は、たまに工場を覗いては、「元気にやっとるか~?」という定型文を皆にかけて回り、さほどの時間もおかず「また、遊びにくるからな~。」と言い、帰っていく。

彼は、皆の元気な顔を見るだけでなく、一台一台の機械の現役を確認したくて顔を出しているのかもしれないな、と思った。

先日、油圧ポンプのクラック(ひび割れ)が原因で動かなくなった20年選手の機械があったのだが、そういえば修理が完了したタイミングでも遊びに来ていた。そして満面の笑みで機械を見つめていた。やはり彼は機械が可愛くて仕方ないのだろう。





これから先、私は引退するまで何度か機械と酒を交わすことがあるのだろう。
その時どんなことを思い、何を考えるのだろうか。



私は今、自分が生きてきた時間よりも長く働いている機械を担当している。
これから先、どれくらい一緒に働けるかは分からない。
産まれてから今に至るまで自分を育ててくれたカレを送り出してやる時、僕はどんな思いでカレと酒を交わすのだろうか。

せめて、『申し訳ない。』などと言わなくて済むように、毎日大切にいたわり、下手糞と笑われないように日々精進するしかないのだと思う。
これ、日本版がリリースされた時にアクセスしてみた時に、何とも情けないデザインに見えて、何となく登録せず仕舞いだったのですが、先月末(?)に放送されたNHKの特番を見たのをきっかけにスタート。

何だか懐かしいメンバーがフォローしてくれたりして、とても嬉しい。

まだこんな私に興味を持って頂ける方、アカウントは「@hidenorism」です。
是非フォローを。

さて、ここからどんな展開になっていくのか。楽しみ楽しみ。
東京から帰ってきて一年半が経ち、色々と思うことが増えてきている。


東京で営業をしていたときは、新規開拓営業というスタイルで、更に求人広告という商材の特性上、新たに立ち上がったサービスやビジネスの情報を広く貪欲に求め、次に開拓すべきクライアントを必死で探し求めていた。

ところが、田舎の工場に篭り、機械相手に技術を精錬するという真逆の職場に転職して二年経つと、自分の視点がかなり限定的になっていることに気づく。まぁ、修行中の身なので正しい姿勢といえばそれまでだが、自分が飯を食う為に探求しなければならない技術を追い求め、新たに出てくる情報をキャッチしきれていないことに気づいた。

東京から帰る前には、およそ想定もしていなかった事態。
田舎に帰っても、まぁどうせ自分の事だからメディアから情報を拾い続けることで、感覚が鈍る事などないだろう。と高を括っていた。

しかし環境のせいなのか、その手に入る情報にリアルを感じることができず、中々新しいものを身近に感じることが出来にくい状態がここのところ続き、この先自分がどうあるべきかを考えてみた。


父は、『衣服はボロでも心に錦』を地でいく、根っからの商売人といえるようなタイプ。自分の信念を強く持ち、今の私よりも少し若いくらいでシール印刷という特殊分野に目を付けて創業。以来30余年、不況の波に晒されながらも、逞しく生きている。

この父の側で働いていると、東京で産まれては消えていく『ビジネス』という言葉をとてもデジタルな雰囲気に感じてしまう。対する『商売』という言葉はアナログのように思える。


これだけ目まぐるしく、様々な価値が提案され続ける現代において、更に更にと新しいサービスが展開されては消えていく。一体どこにそんなニーズやシーズがあるのか、というような一般人には到底理解できないようなサービスから、メジャーなサービスに付帯するようなサービスを、誤解を恐れずにいうなら、その多くは『金儲け』のために花火のように打ち上げ続けているように思う。

創業者は、上手くサービスが軌道に乗ったり、類似サービスを展開する企業に会社ごと売れたりすれば、『金儲け』の目標は達成され万々歳なのだろうが、働いていた社員は、サービスの消滅や企業・事業単位での買収などによって行く先が流れ流れていくことになる。


父は、未だにインターネットはおろか、携帯でのメールすらできない。
しかし、それでも人はなお周りに集まってくるし、ご多分に漏れずシール印刷もネット通販によってデフレ化しているが、その影響を受ける事もなく受注は安定している。

そこに『商売』というものの本質があるのではないか。と考え出した。


『ビジネス』は必要がなくなれば、あるいは世間にその価値をNOと突きつけられれば、そこでゲームセットになる。

『商売』はそうではない。
バナナの叩き売りよろしく、そのバナナをいかに美味しそうに見せてあげるか。そのバナナを通じて、どれだけ自分とお客様の間での人間関係を構築できるか。これが肝だ。
究極的には、所謂『お付き合い』での取引。競合の入る余地なく『いつもの』で通じ合える仲がベストである。


東京での自分を振り返ると、求人広告業界という『ビジネス』の中で『商売』をしようとしていたのだと気づく。
目先の売り上げだけを見つめることなく、どれだけ人間関係を深堀できるかに注力していた。
仕事において結果でコミットすることは最前提。
暇さえあれば酒好きなクライアントと自腹で飲みに行ったり、担当者が退職されると聞けば、せめて自分のような一営業マンを可愛がってくれたお礼にと気持ちながらの粗品を購入して持参してみたり。

同僚からは、よく『安部のクライアントはアクが強い』と言われていたが、まぁ変わった人も多かったのは事実だけれど、クライアントが自身の『アク』を出してくれるのは、それだけ人間関係が出来ていたという証でもあると今でも思っている。

事実、私が職場を実家に変えても、『印刷』というキーワードだけしか繋がりがなかったりして、お問い合わせに応えられなかったケースもあるが、前職のクライアントから10件ほどお問い合わせ頂けているのは、私にとっては大きな財産だ。
中でも、入社1年目のときにアパートの一室に飛び込みで営業をかけ、辞めるときには株式上場を果たしていた某IT企業など、前職の取引回数を既に現職で上回っている。本当にありがたい。




新しい情報の創出スピードは、恐らく加速し続ける。それとは反対に私は老いていき、いずれ若者の感覚ではモノや価値を図れなくなってくる。

だからこそ、このビジネスの世にあって、心でつながれる商売人を目指す。
どれだけ世界情勢が悪くなっても、どれだけ情報化が進んで行っても、『いつものアレ』をお願いされるマーケットは消えない。



存在自体に付加価値がある商売人へ。
実はビジネスを極めるよりも、遥かに難しいのかもしれないけれど。