2024年12月の月間MVP大賞の発表です!
さて、改めて説明しますと。
まず月間MVP賞とは、その毎月のアクセス数が最も
多かった記事を1つ、再度掲載するものです。
そして、年間を通してのグランプリ。年間MVP大賞へ
ノミネートされ。
年間を通してのNo. 1アクセスを決める候補として12月
に決定されます。
(ただし去年は年間MVP賞は開催しませんでした)
12月以降の月間MVP賞全体としては・・・。
相変わらず、あの子の記事が中心に見られている訳で。
年間通しても、彼女が何かしらの新作DVDが出ようものなら
何かしらの検索にかかって見られているのだろうけれども。
12月中には新作で撮り下ろした、クリスマスライブの
記事や。今回のMVPの記事が多く見られているのは本当に
ありがたい事になりました・・・。
過去の遺産が数字を呼ぶというのは、先々を見越した運営
をする事ができたようなのは今になって功を奏した感じです。
というわけで、月間MVP賞の発表です!
発表いたします!
12月の月間MVP賞は・・・!?
2024年
12月 15日に掲載した。
①【再々掲載】祝!ブログ開設10周年企画:
忠臣蔵完全現地中継!リアル歴史の旅〜刃傷事件の刻〜
でした。
おめでとうございます!
それでは、引き続きMVP受賞記事を一部編集してお届け
いたします。
時は元禄14年1701年3月14日(旧暦)
(大手門交差点)
(皇居入り口)
(こちらは江戸城の入り口へやってまいりました)
マンセル:みなさん、深夜にこんばんは!
グラハム:この記事は編集を始めたはいいのですが、まだまだ
どんだけのキャパになるのか?どういう編集になるのか?
全くわかりません。
マンセル:ですが、我々。2年の月日を費やして、この
忠臣蔵の真実を追うべく。あらゆる資料、参考映像なども
調べ上げ。いつくかの確実な新事実を見つける事もできま
した・・・。
あの話やこの出来事、それぞれを現地より検証して行きたい
と思います。
(あそこです!)
マンセル:あの茂みに見えるあの奥。
あの奥で1701年3月、松の廊下事件が発生しました。
その遺恨が約2年の後に起きる、吉良邸討ち入りまでを
完全現地取材を2年に渡っての経過を報告してゆきます。
グラハム:あの場所、松の廊下にも中継入ってますので。
中継を繋ぎたいと思います。
マンセル:皇居内におります、もしゅもしゅくん!
チェリッシュさん!裕子さん!どーぞ!
(はーい!)
きつねの裕子:みなさま、ご機嫌麗しゅうございます。
チェリッシュ:こんばんは!
もしゅもしゅ:深夜にこんばんは!
きつねの裕子:こちらは、かつて。松の廊下があったとさ
れる、江戸城内。現在の皇居内へやってきました。
(こちらにはその石碑が残されております)
もしゅもしゅ:この場所で、浅野内匠頭が脇差を抜いて
吉良上野介へ斬りかかったというあの事件の現場です。
チェリッシュ:現在はその石碑と案内看板のみが残るだけに
なっております。
石碑のみ
と、看板。
ここで浅野内匠頭が殿中であるにも関わらず、彼が脇差し
を抜き額と背中へ切り傷を負わせるも。
吉良上野介は一命を取り留め、浅野内匠頭は身柄を取り押さ
えられ。吉良を取り逃した事を悔やんだという・・・。
これがその時の事件を描いたものですが。
(トンデモない事が起きた訳です)
もしゅもしゅ:かねてよりの遺恨のあったという両者。
ここで刀を抜いたらどういう事になるか?彼は考えたはず。
チェリッシュ:でも武士の世界にあるという、喧嘩両成敗
という原則であれば。自分も一緒に吉良上野介も処罰される
と思ったに違いないわね。
きつねの裕子:ところがそうは、徳川将軍は判断しなかった。
(実はここはどういうところか?)
ここは確かに松の廊下があったところではありますが、ここが
どういうところなのか?
それはですね、飛んでもない場所だったんです。
(こちらをご覧ください)
実は松の廊下からは直接は行けずに、”の”の字を描くように
廊下が続く訳ですが。
この芝生が見える辺りに、この刃傷事件が起きた時。
大広間の接見室のようなところには、将軍と朝廷の勅使が
既に面談をしていたわけでして。
直線距離にしたらおよそ30m付近だったという。
(事件を知って・・・)
この刃傷騒動を聞いた、将軍と勅使は。護衛に守られながら
更に奥の間へ避難したという。
こんな感じで、将軍と勅使は避難したそうでして。
(つまり・・・)
関ヶ原の戦から100年になろうかというこの時、平安な
時代になったはず?の元禄のこの時に・・・。
浅野内匠頭が将軍のすぐ近くで刀を抜いてしまったという、
暴挙と言ってもいい行動に打って出てしまった。
そういう事件だった訳です・・・。
(詳しい案内はこちら)
しかし、取り押さえられた浅野内匠頭は、討ち漏らした事に
も悔しさを滲ませながらも。
決してこれは幕府へ対するものではない、という証言もあり。
先も申したように、喧嘩両成敗の原則であれば。自分の家
やその赤穂藩の行く末を不安に思いながらも。
自らの命と引き換えに、吉良上野介にも厳しい処罰がなされ
るとどこかで思ったのかもしれませんが・・・。
幕府の取った判断は、そうではありませんでした。
(こちらは、新橋の新虎通りです)
マンセル:こちらは新橋駅からほど離れた、最近できた新虎
通りですよ。
グラハム:後ろに見えているのは、虎ノ門ヒルズです。
ここには2020年に日比谷線の虎ノ門ヒルズ駅ができる
辺りへ優雅にお茶をしにきた・・・訳ではありません。
マンセル:江戸城松の廊下での刃傷事件で取り押さえられた
浅野内匠頭は、当時この付近に居を構えていた大名の田村家
へ連れて来られまして。幕府からの沙汰を待っておりました。
グラハム:そして、その沙汰は即日伝えられ実行されました
それは・・・。
(こちらです)
浅野内匠頭終焉の地です。
マンセル:浅野内匠頭は即日、切腹の命が下された訳です。
グラハム:しかし、吉良上野介においてはお咎めなし。
という裁定に、赤穂藩の武士たちはもとより。江戸の町民
達にもその不平等な裁定に不満が高まります。
マンセル:その後、浅野大学を藩主として、浅野家再興を
嘆願したものの。他家への身柄預けになる事で、名実ともに
浅野家、赤穂藩はお取り潰しになってしまった訳でありました。
続く・・・。
風さそふ 花よりもなほ 我はまた
春の名残を 如何にとやせん
浅野内匠頭辞世の句
ちなみに、この近くにある和菓子屋さんには、切腹最中と
いう和菓子が売られておりまして。
現代ではお詫びの印という意味合いで、企業が持参する
手土産に用いられるようになっているそうです。