⑧【再々】祝!ブログ開設10周年企画:忠臣蔵完全現地中継!リアル歴史の旅〜泉岳寺への道のり後編終 | What aわんだふるワールド

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がむばるベアーズ:マンセル、グラハムくんの奮闘日記。

現在工事中の、高輪ゲートウェイ駅が完成したら。

より近くに見られるようになる?こちら泉岳寺。

46人が、江戸の町民に歓迎されながらも。討ち入り後の

赤穂浪士達は、相当疲れた状態でここやたどり着き。

しかしながら、上杉家からの反撃があるのでは!?という

警戒もしつつ。どちらにしても中に入るまで、落ち着く訳

でもないまま到着します。

 

 

マンセル:ここには大石蔵之助さんの像が立っております。

 

グラハム:彼等の本懐を遂げたというのは、美談としては

多く語られる訳ですが。

お坊さん達も彼等へ、いわゆるサイン攻めに会うのですが。

一方では、殺生な訳ですから。後から落ち着いてくるとその

辺りの冷静さもまた備わる訳です。

 

マンセル:それでは中へ入って行ってみましょう。

 

(更に中へ)

 

(お墓や他はこの左手奥)

 

 

(その前には・・・)

 

この石と木には、先にあの新橋で切腹した。

浅野内匠頭の鮮血が飛んだという、その時の石をこちらへ

運んだそうです。

 

 

元々はこの辺りにあったという・・・。

 

 

更には墓前へ奉納する前に、もう一度ここで吉良の首を

洗ったという井戸も残されております。

 

 

こちらは噴水の池にも見えますが、実はこれ!

 

 

両国から泉岳寺までの行軍の際の隊列を模したものでして。

こちらの資料を基に配置されていたものでした。

どこに誰が歩いていて、誰が吉良の首を掲げていたのか?

そんな事の事細かなシフトまで読み解けるようになっており

ます。

 

彼等はこのフォーメーションを見てもわかるように、上杉家

の援軍や幕府との衝突等。あらゆる状況において警戒を一切

この時点では解いてはいなかった訳です。

 

 

(そして、泉岳寺周辺の地図です)

 

泉岳寺へやってきた赤穂浪士達・・・。

彼等は、細川家や他数件の大名屋敷へ身柄を預けられます。

今回の討ち入りの一件においての処罰をしばらく待つのでした。

 

(マンセル、ここが泉岳寺。今いるところ)

 

(こっちが大石内蔵助他16人が預けられた細川家)

 

そして、彼等全員に切腹の沙汰が降りました。

 

 

あら楽し 思ひははるる 身は捨つる

浮世の月に かかる雲なし

 

大石内蔵助

 

彼の辞世の句です。

今回写真では公開できませんでしたが、大石内蔵助切腹の時

の絵もあるようでして。

絶命して行く時に、彼は全ての任務を終えた安堵感なのでしょ

うか?穏やかな亡き顔だったという絵も残されております。

 

 

泉岳寺の赤穂浪士47人の墓石配置図。

 

 

それぞれに預けられた家毎に固まってここに眠っております。

そして、来訪したこの日。なんて事のない日曜日の昼であっ

ても。ここはお線香の煙が漂い、花が手向けられておりまし

た・・・。

 

確かに、赤穂浪士討入りは。

 

赤穂浪士は善

吉良上野介は悪

 

という構図が出来上がっておりますが、果たしてそうだった

のか?忠義だけでは語られない事も多く散見しております。

幕府の経済政策の失敗、そこから江戸町民達の批判を交わす。

その目的の為に、この一件を利用して。批判の目を吉良へ

偏らせた!?そんな状況だったのではないでしょうか?

吉良上野介は幕府によって、あるいは歌舞伎や他。時代劇

でも映画でも、悪の存在のように見せかけるマッチポンプ

か幕府のプロパガンダに使われたとも思われる。

 

その実、この討ち入りに参加しなかった。元赤穂浪士達への

批判もあれば。

生き残った吉良家の家臣の中にも、主君を守れなかった不甲

斐なさにも批判や。嫌味なども多かったという。

 

これにより、上杉家も断絶になり。

先祖は足利家、更には、今川、上杉といった。戦国時代や

それ以前から続く名門の血筋は。この討ち入り事件でもって

完全に血脈は途絶えるという事に・・・。

そして、浅野家は後に大学による再興を果たすのでした。

 

赤穂浪士達の美談や手柄は、歌舞伎担当。

討ち入りに参加しなかった残りの250人、こっちは落語

担当。人間の業や苦しみ悲しみを説く事に・・・。

 

 

しかし、あの寺坂吉右衛門だけは晩年を生き抜き。

この忠臣蔵の真実を伝えるべく、生かされたというのも。

この事件を正しく伝える為に残され生かされたのでした。

それゆえに、彼の証言もこの事件を読み解く大きな鍵に

なった事は間違いありません。

 

そして、終戦翌年の両国です。

 

辛うじて両国駅が残り、黒い四角で囲ったのが吉良邸跡。

赤い四角で囲ったのが前原伊助の米屋。

青い線で描いたのが赤穂浪士が歩いたと見られる場所。

 

丸い建物は当時の国技館だそうです。後日取材により判明。

回向院は完全に消失していた訳ですし。吉良家も前原の米屋

も空襲で跡形もないのです。

 

で、両国駅から道路1本先のまだ焼け残った家屋。

この付近に現在は両国アクアスタジオがある辺りです。

 

 

そして現在の両国駅周辺の街並み。

 

きつねの裕子:全く繋がりのないように見える1702年

の出来事・・・。それより316年の後、こうして芝居や他

が楽しく見られるというのは。かけがいの無い、大事で

貴重で、幸せな時間。なのかもしれませわね・・・。

 

 

以上が、真実の忠臣蔵です。

そしてそれらを全て、現地にて実際に足を運んで見てきた

この企画もこれでおしまいです!

長らく読んでお付き合い頂きましてありがとうございました。

 

 

最後に、大石内蔵助像を・・・。

 

祝!ブログ開設10周年企画

忠臣蔵完全現地中継!リアル歴史の旅

 

これにて終了!

 

長らくお付き合い頂きまして、ありがとうございました!

2年の歳月による取材は、ここまでです。

 

byがむばるベアーズ