祝)個人的元旦11周年企画:忠臣蔵完全現地中継!リアル歴史の旅〜討ち入り成功への秘策 | What aわんだふるワールド

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がむばるベアーズ:マンセル、グラハムくんの奮闘日記。

さて、続いてですが。

これだけ散々書いてきた中ですが、何故に大石内蔵助始め

とした47人が討ち入りに成功したのか?

その成功の秘策というのもありますが、幾つもの謎もまた

生まれる訳で・・・。

 

今まで知られている、ドラマや大河ドラマですら表現されて

いない話。あるいは脚色された話であったり。

 

あるいは、芸人風情の話のように。あたかもそうであるよう

な根拠のない話を真実であるかのようにいい振り回す嘘、

デマの類や、他人の美談や手柄に便乗するといったものが

ある訳ですが。

この先は、それぞれの事実を覚書などから解析していこう

と思います。

 

 

マンセル:さてグラハムくん、大石内蔵助以下47人は

 

静かに深夜2時頃に米屋に集結した訳で。

 

虎の一点と言われる午前3時にここで二手に分かれて移動

 

する訳だよ。

 

グラハム:でもたくさんの謎もあれば、何故それが成功した

 

のか?っていっぱいあるよね。

 

(数々の謎をまず上げていこうか?)

 

ナレーション対応

 

まずこの討ち入りの結果から言えば、当然知っての通り。

大石内蔵助の討ち入り襲撃は成功を収める。成功どころ

か?大成功を収めるのだが。

それは被害の数だけを見てもお分かりだろう。

お喋りだから、答えを先に言っちゃいますが・・・。

 

赤穂浪士47人中

負傷者2名のみ

 

vs

 

屋敷内は吉良上野介と家臣が約150人

その内、死者22名

(吉良上野介含む、本所公園に合祀されている人数と

完全一致)

重軽傷24名

死者重軽傷者合計46名

 

という、圧倒的な敗北を喫する吉良家。

 

まず、数々の時代劇や他でもそうですが。

 

赤穂浪士47人は有名過ぎて誰もが知る人数ですが、では

吉良側には何人いたのか?というのは、その時代劇や芝居

等によっては、90人だったり100人だったりとあり。

更に驚く事に、真実22人(吉良本人を含む)しか亡く

なっていないにも関わらず。

劇中に出てきて斬られている人数も、30人〜50人前後

だったりと。合祀されている人数とどこも辻褄が合わない

というだけでも、十分な資料に基づいたものではないという

事もはっきりしている。

 

つまりはそれだけ、真実の忠臣蔵の出来事は数字の面からも

辻褄の合わない事もはっきりとしている訳で。

時代劇やその時々の世相や状況によって、あたかも何十人も

斬っているという演出での数字が現れていると考えられる。

ちょっと調べたら分かる事を、あたかもそれを全て鵜呑みに

するのはこれほど危険な話もないものだと・・・。

 

そういうてらいの話だからこそ、前出にあるように。

自分の先祖が討ち入りの際に高張りを掲げたという話を

真実だと吹聴するのが横行する訳であって。

これらの話もこの後にご報告できると思いますが。

もし仮に末裔だと断定したとしても、名字が既に違う訳で

すから。直系ではないのもまた事実であって・・・。

例えば遡って行って、曽祖母の実家がそっちと繋がりがある

としても。それははっきり言えば他人の家系なのであって、

あんたの先祖って言えないような家系で直系ではない訳

ですからね。遠い親戚の従兄弟の再従兄弟姉妹も、ならば

兄弟ですか?言うようなもの・・・。

 

これははっきり言って

”嘘” だと斬り捨てていい。

 

 

なので、こう言った嘘やデマや美談の便乗を排除しつつ。

この討ち入り成功の秘策や新たに浮かぶ謎、それらを少し

ずつ調べてみたいと思います。

 

何故、赤穂浪士達はこれだけの成功が収められたのか?

いくつかの謎、原因を箇条書きにすると・・・。

 

1:長屋封鎖作戦と綿密なルール

(ある意外なものがそれを可能にした!?)

2:武家社会の身分制度

(武家社会の盲点を突いた)

3:表門部隊と裏門部隊の戦術分け

(大石内蔵助の戦術)

4:一向二裏作戦

(現在でも空軍が使用している先端戦術)

5:追い詰められた、吉良上野介の最期

(知られている時代劇とは全く違うエンディング)

6:泉岳寺までの道のり・・・

(本当は予定にない行動だった?)

 

 

まずは、米屋に集結した赤穂浪士達の動きから。

 

 

米屋の中で47人は完全武装を施し、吉良家の長屋前の道路に

集結し。表門、裏門にそれぞれ23人と24人の編成で分かれ

るのだった・・・。

※原惣右衛門覚書による

(参考文献は、この先緑で表記してゆきます)

 

それでは、赤穂浪士47士の全スターティングメンバーを

ここで紹介しましょう!

 

表門部隊

 

司令部

大石内蔵助、原惣右衛門、間瀬久大夫

 

屋内討入隊

片岡源五右衛門、富森助右衛門、武林唯七、奥田孫太夫、

矢田五郎右衛門、勝田新左衛門、吉田沢右衛門、

岡島八十右衛門、小野寺幸右衛門

 

場の内隊(屋内からの脱走者を討つ部隊)

早水藤左衛門、神崎与五郎、矢頭右衞門七、大高源五、

近松勘六、間十次郎

 

屋外隊(屋敷の外へ逃げる者を討つ部隊)

堀部弥兵衞、村松喜兵衞、岡野金右衛門、横川勘平、

貝賀弥左衛門

 

 

裏門部隊

司令部

大石主税、吉田忠左衛門、小野寺十内、間喜兵衞

 

屋内討入隊

磯貝十郎左衛、堀部安兵衞、倉橋伝助、杉野十平次、赤埴源蔵

菅谷半之丞、大石瀬左衛門、村松三太夫、三村次郎左衛門

 

屋外隊

潮田又之丞、中村勘助、奥田貞右衛門、間瀬孫九郎、

千馬三郎兵衞、茅野和助、間新六、木村岡右衛門、

不破数右衛門、前原伊助

 

寺坂吉右衛門は、裏門から邸内には入ったようだが。

どうやら?大石内蔵助の表門隊からの指示命令を、隊や裏門

の息子、大石主税への伝令ではないか?と・・・。

その彼が伝令としての役割も含めて、後世へ語り継ぐために

も彼の情報というのは後に生きてくる訳です。

 

(裏門隊は主に武闘派が集められていた)

 

吉良の寝所が近いと思われていた、吉良の裏門前には腕に

覚えのあるメンバーを中心に集められており。

もっとも激戦区を想定してたもよう。

表門から直線距離でも吉良の寝所までおよそ100m。裏門で

彼等が暴れても表門のメンバーで討ち取るという、大石の

二正面作戦が練られていた。

 

更には従来のドラマや歌舞伎などの衣装ではなく、

地味な黒い羽織を着用していた訳であります。

更には、敵味方を識別するべく付けた名前。それも

袖口に白く小さく書かれた腕章のようなものだったのです。

※寺坂信行筆記より

 

 

しかし、裏門隊は到着後直ぐに潜入する訳ではあり

ませんでした。

そして、今見えている白い壁と屋根の部分。

この長屋が、この事件の勝敗を決定づける大きなもの

なるのですが・・・またそれはおいおいで。

 

(表門、裏門で持ち場所に着きました)

 

そして、こちらが現在で言うところの。

Googleマップ、あるいはGoogleアース映像です。

 

矢印のあるここ↑に現在、マンセル、グラハムくんはおります。

 

 

そして、こちらが現在の両国。吉良邸のあったエリアを描いて

みた訳ですが。

この広大な敷地の中を、たった47人で宿敵、吉良上野介を

探し出さなければならない訳でありまして。

 

現状況では。

 

赤穂浪士   吉良家家臣

47人  vs 約150人

 

この状況のままでは・・・およそ。

1人vs3人

 

と言う圧倒的人数的に不利なこの状況を、この広大な敷地

の中とはいえ一人を見つけなければならないと言う・・・。

 

それでも大石内蔵助と赤穂浪士の大勝利は、どのようにして

達成できたのか?

 

 

ここよりいくつか記事を使って解説してまいります。