祝)個人的元旦11周年企画:忠臣蔵完全現地中継!リアル歴史の旅〜幕府の思惑〜 | What aわんだふるワールド

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がむばるベアーズ:マンセル、グラハムくんの奮闘日記。

刃傷松の廊下事件で、浅野内匠頭一人を切腹させた幕府

への怒りは。当然赤穂藩からも沸き起こるも、大石内蔵助

以下の家老達は。

それでも浅野大学を藩主に、浅野家再興と赤穂藩存続という

一縷の望みを繋ぐにも。

血気盛んな部下達の反発も激しく、全員から決起しないという

証文を取り付けるのだが・・・。

江戸の庶民と、江戸にいる家臣達は討ち入りに躍起だった。

ある時から、こんな噂が江戸の街を走り回るのだった・・・。

 

大石内蔵助が江戸へ入れば、

吉良家に討ち入りがあるのでは?

 

というものでした・・・。

 

これに真っ先に反応したのは、相手吉良家ではなく。

吉良家周辺の大名達でした・・・。

 

(鍛冶橋)

 

からのぉ〜・・・。

 

(はい、どーも!)

 

マンセル:今度はこちら、鍛冶橋へ我々はやってきました。

 

グラハム:現在の東京駅になります、東京駅の有楽町寄りで。

 

線路の向こうは皇居で、その反対側に今来ております。

 

マンセル:現在ですとここは、東京駅発着の長距離バスが

 

停留する場所になっております。

 

(こちらへ行けば、京橋方向)

 

グラハム:この先を行けば両国方向ですね。

 

(こちら行けば、皇居。江戸城です)

 

(当時この付近は・・・)

 

マンセル:当時この付近は、幕府要職の大名達が江戸での

 

上屋敷を構えていた武家屋敷の密集地帯でした。

 

グラハム:今は道路になってますが、内堀に囲まれたエリア

 

に吉良上野介は当時居を構えていた訳です。

 

(ここを歩いても10分で江戸城です)

 

マンセル:という事は、この界隈に住めるというのは。

 

当然、吉良家というのは。要職中の要職であり、勅使を

 

おもてなしする上でも幕府側の顔ともいうべき役職でした。

 

しかも先祖を辿れば、あの足利家、あるいは今川家、そして

 

上杉家と・・・。

 

室町幕府の起点から戦国の有力大名が、家系図にはこれでも

 

か!?とばかり並ぶという名門中の名門の家系なのです。

 

グラハム:浅野内匠頭はその下で、朝廷とのおもてなしを

 

担当する立場に任命されました。

 

しかし、赤穂藩と、吉良の藩とでは石高は5倍。赤穂藩の方が

 

裕福であったのにも関わらず。官位や立場は下だというこの

 

矛盾も生まれていた訳でもあります。

 

(ところが・・・)

 

マンセル:諸説はあるとは言いますが、吉良からの

 

今でいうパワハラや。陰湿なイジメや圧力、あるいは武士の

 

誇りを踏み躙るような侮辱があったと言われており。

 

グラハム:逆上した浅野内匠頭が殿中で刃傷に及んだとされて

 

おりますが・・・それだけだったのか?というのもありますが。

 

その辺の彼の心情を読み解く資料はないものですが。

 

(ここで一つの大きな流れが動き出します)

 

マンセル:江戸庶民がある噂を流した訳です。

 

大石内蔵助が江戸へ入れば、

吉良家に討ち入りがあるのでは?

 

グラハム:この噂で誰よりも一番震えたのは、吉良家周辺に

 

住んでいた。他の大名達でした。

 

そんな大名達は、幕府に対してある陳情が殺到します。

 

 

泰平の世になって、当家近くで討ち入り等の殺戮は

まかりならない・・・。

 

(当時の鍛冶橋周辺)

 

マンセル:特に、吉良家の隣に住んでいた、蜂須賀家に

 

対して。幕府からはこういった命令が出たという・・・。

 

 

幕府:討ち入りがあった時には、

どちらにも加勢をせずに自家を守るべし。

 

つまり、幕府は。仮に討ち入りがあっても、どちらにも

味方をしてはならない!

 

という強い命令を出していた訳です。

 

つまり幕府は、どちらにも味方しないし。更には世の中を

混乱させる行為には強い反対意思があったものとわかる

命令であり。

前出にもあるように、赤穂浪士の討ち入りに高張りを立てて

討ち入りに協力する事は。幕府の命令を無視したものであり。

国家の騒乱に加勢する行為でもある訳です。

それがもし本当にやったというのがご自慢であれば、当時

厳罰はまず免れないものだったはずなのです。

にも関わらず、それを正当化する言い回し。当時であれば

それは生涯黙っておくべきもので、それを過ぎた話として

こっそり言い振る舞ったのであれば。

それこそ武士の風上にも置けない、卑怯で姑息な手段を

先祖は取ったという事を自ら示すものになるのです。

両家とも結果血を流し、お家が断絶するという悲劇を迎えて

いるのにも関わらず。討ち入りの美談にだけ乗っかるという

それは、何よりも卑怯者極まりないものなのです。

 

 

更に幕府は一計を案じます

吉良家、両国へ屋敷移転。

 

 

当時江戸城を目と鼻の先にした、内堀よりも内側に居を構えて

いた吉良家でしたが。

今回の刃傷沙汰での一件において、体裁上は居を移す事で

懲罰の意味合いを世間に対して見せた格好だが・・・。

 

 

現在の東京駅付近にいた吉良上野介は・・・。

 

 

本所に空いた武家屋敷があった事で、こちらへ移動となった

のですが。この場所が重要でした。

 

本所のこの付近というのは、テロップにもあるように。

近辺の出入りは自由という理屈・・・。

現在の両国とか両国橋という意味合い・・・。

 

江戸というのは。

 

隅田川から向こう岸。本所あたりは当時・・・。

江戸ではなく下総の国だったのです。

 

 

現在で言い換えれば、東京都ではなく千葉県だったのです。

 

つまり両国橋とは、江戸と下総の両(りょう)国(こく)

にかかる橋という意味だった訳で。

 

つまりは、吉良上野介は江戸からの所払いだった。

 

訳です。

 

ということは・・・?

討ち入りをするならば、江戸の外でやってくれ?

そういう幕府のサインではないのか?という説も出てくる

のですが。それもまた、確たる証明には至れませんでした。

 

本所へ移った吉良上野介は、江戸城へ上がる際。

その道中を物々しい警備をつけて移動する事を余儀なくされ

るのでした。

実は、仇討ちというのは当時の常識

としては〇〇で行われていた!

 

その理由はまた後ほど解説するとして・・・。

 

 

更に江戸幕府は強かに考えます・・・。

 

当時、幕府の金利政策が大失敗し。今で言うところの

ハイパーインフレを起こしていたのです。

つまりは、経済的には破綻のフチでした。

 

 

元禄の改鋳(かいちゅう)と呼ばれるもので。

小判に含まれる金の含有率を8割から5割へ。

それにより物価が急上昇してしまい、庶民の生活は困窮を

極めるのです。

 

この幕府の政策の失敗に加え、松の廊下刃傷沙汰においての

喧嘩両成敗にしなかった事への不満が町民には根強く。

幕府への不信は強まる一方だったのです。

 

 

しかしながらそんな中でも、ある一人の赤穂浪士が活躍を

するのですが。それは次の記事を・・・。