表門部隊も裏門部隊からも、遂に吉良邸の母屋へ突入が
開始されました。
果たしてどうやって20人の家臣達を、赤穂浪士達は怪我人
も出さずに圧倒していったのか?
残りの項目を順に紐解いていきましょう。
裏門の戦闘から振り返りますよ。
4:一向二裏作戦
(現在でも空軍が使用している先端戦術)
何度も書いてあるように、先に答えを言ってしまうと。
吉良側には22人の死者を出している。
(吉良上野介本人を含めて)
という大惨敗と言っていいほどの被害が出ている。
これは赤穂浪士側の完全武装の準備も当然さることながら、
この一向二裏(いっこうにうら)作戦というのが、有効
だった訳です。
(イメージです)
マンセル:つまりこういう戦い方になったのです。
吉良家家臣1人に対して、赤穂浪士側は3人で取り囲み。
一人が正面で引き付けておきながら背後から二人で斬りかか
るというものなのです。
確かに、一見すると。1対1の斬り合い?みたいなのが
正々堂々としているように時代劇に見るような?THE武士道
のように思えるでしょうが。
この戦いはあくまでも吉良上野介の首ただ一つが狙いで
あって。
実はこの戦術は後々、新選組も採用したというものであり。
現在では世界中の空軍も採用している戦術で。正々堂々と
いう前に勝つ事が絶対命題なのです。
戦術という点では、正々堂々とか言ってられないんです。
上手い作戦と見るか?ルール無用と見るか?ですが。
絶対に勝つための戦術であり、武術の無い者あるいは低く弱
い者の生き残る戦術といえば戦術でもある訳です。
※赤穂分家済美録より
5:追い詰められた、吉良上野介の最期
(知られている時代劇とは全く違うエンディング)
遂に母屋に赤穂浪士達が潜入し、吉良上野介捜索がいよいよ
本格的な捜索が始まった。
何度も言うように、広大な屋敷の中。
図面があるとはいえ、真っ暗の中をむやみやたらに突っ込
んで行っても。邸内は真っ暗な訳です。
(イメージ)
その為には、室内にあった蝋燭に火を灯し。
万が一の時の脱出ルートに、道しるべでもあり。
制圧した部屋、廊下を照らす事で母屋の部屋一つ一つを
チェックしていった訳です。
(イメージです)
これはよくドラマや映画でも描かれているもの、そのもの
でした。
※堀内傳右衛門覚書より
(イメージです)
ただし表の場合、この日は12月14日。日が変わって
15日午前3時でして。
この日は太陰暦で十五夜お月様で満月だった訳で。
月夜で満月の天然のライトが降り注いでいる訳であって。
更には雪が降り積もっていて、その照り返しもあったので
あって。普段の月夜よりもより明るい夜だったと言う。
この討ち入りは、天候までをも味方につけたものだった
のです。
だが、ここまで好き放題やられている吉良側。
討ち入りは無い?来ない?と、思っていたのか???
という疑問もある。
がしかし、ここにも大石内蔵助の見事な戦術があった!
本来の仇討ちというのは、全て
”道端”で行われていた!
討ち入り2年前、松の廊下事件以前の最新の仇討ちという
のは、実は道端での斬り合いになっていた。
他にも浄瑠璃坂仇討ちなど、仇討ちがあるという場合は。
大概が道端で斬り合いになるという。
いわゆる、「ここで会ったが100年目!」的なもので。
しかもこの事件。後々大石内蔵助のがこの討ち入り作戦を
練る参考とも言えるものでした。
(左:深掘騒動。右:吉良邸討ち入り)
先の仇討ちでも、まず相手の武器という武器。
それを破壊してから後に、敵の首を討ち取りに行くという。
この戦術はこの時のままで、この戦術もあの寺坂吉右衛門が
この時の資料を集めてきたとされている訳です。
事件はなにせ、長崎で起きているものですから。京都や江戸
にいては分からない事件でもあったのです。
だが勿論、鍛冶橋にいた頃から。討ち入りという事も当然
想定してはいた訳で。
散々周辺大名からも、幕府への陳情があったように・・・。
このように戦場においての陣小屋の形式で、ロの字あるいは
コの字型で周りを家来で固めて本陣を真ん中に置く形であり。
この形は何の違和感もないのだが、仇討ちという趣旨であれ
ば本来は道端での戦闘だと想定していた。
本所の吉良邸から江戸城までの道中での移動の警戒はしていた。
だからこその150人体制で吉良一人を守るのに移動していた
のだが。
この日、大茶会、大パーティーが無事に終わって。
はぁ〜今日はもうないだろう・・・という一番油断した瞬間
の寝込みを襲われた訳であって。
しかもこの日は、普段寝泊まりしていない吉良上野介を久しぶ
りだから泊まっていったら!?という、絶妙なタイミングを
彼が情報を掴みました。
この後もまた登場します!
大高源五の大手柄だったんですね。
また後で登場してきます、この大高源五
彼がこの茶会で吉良が在宅するという情報というのが、江戸の
赤穂浪士達にもたらされて決行が決まったと言っていい。
大高源五が吉良と同じ茶人の師匠の元へ弟子入りし、吉良の
動向を彼もまた別側面からスパイ活動をしており。
この日に討ち入りが行われた訳ですが・・・。
※大石内蔵助の寺井玄渓への手紙による
こちらの表をご覧ください。
刃傷松の廊下事件よりおよそ2年。
赤穂藩にはおよそ300人の浅野内匠頭の家臣がいた訳です。
しかし、赤穂藩のお取潰しや城の明け渡し。あるいは、藩札
の債権返還等で藩の財政で債権者へ返す間にも。
家臣達は、どんどん他の藩へ仕官をしたり。あるいは、武士
を辞める者等が続出。
大石内蔵助はこういった書面を残していた・・・。
大石家の身内からも藩から脱落してい行き、血気盛んな江戸
の赤穂藩士達は。明日にでも吉良へ斬り込みかねない事態。
だが、討ち入りをしない事を誓わせる為に。全員から神紋を
取り付け。大石内蔵助は浅野大学を藩主としての再興が叶う
まで待つのですが・・・。
脱落しても、討ち入りの相談の事は漏らさぬようにと釘を刺
していました。
上記の表にあるように、それが伸びれば伸びるほど。
藩士達は続々と脱落してゆき、赤穂藩からのそれぞれに分配
された禄や資金も徐々に底を見せ始め、堀部安兵衛において
は陽成院にこれ以上は予算が無いという手紙を送るという。
この討ち入りは会計帳簿も残るほどの緻密さだったのです。
もちろん、吉良側も討ち入りがあるのでは?と、早い時期で
あれば警戒も強かった訳で。年月が経てば経ったで徐々に
警戒も薄れ始めてくる・・・。その間隙を縫う格好での
討ち入りだった訳で。
そして討ち入り中止か?決行か?のギリギリのデッドライン
が迫る中。あの14日夜、日が変わって15日。例えそれが
十五夜満月の夜であったとしても、討ち入り中止寸前でも
あった訳だが。大高源吾の情報がもたらされて、大石内蔵助
は討ち入りに舵を切ったのです。
一方の吉良上野介は・・・。
討ち入りを知って寝所で寝ていた所だったのを、清水一学
等に起こされ。状況を聞かされるも、長屋が封鎖され孤立
してしまっている。
母屋の中で動ける人数は僅か20人。しかし、既に裏門の
戦闘で死亡者が数名既に出ている危機的状況・・・。
吉良は寝所を出て・・・。
炭小屋へ避難した・・・と、言われていましたが。
実は、吉良は炭小屋には居なかった
のです!
↑これは後にわかります
(イメージです)
そして、浪士達は吉良の寝所へ到達するのですが。
既にそこはもぬけの空でした。
※史実によると、この時上杉家に知らせが届いていた
茅野和助と、大高源五が吉良の寝所へ到達し布団を
確認します。
茅野:まだ布団が暖かこうござる!
※史実通り
ここから赤穂浪士は、どこかへ隠れた吉良上野介捜索が始ま
ろうとしています。
だが赤穂浪士側にもここで計算が狂う訳です。
この討ち入りは、どーしても夜の内に。陽が昇る前に全てを
決着つけなければならない訳です。
なぜなら、前にも書いているように。
吉良家150人vs大石赤穂浪士47人
しかいない事がわかってしまう訳です。
焦りの色が見えてしまっては、吉良を討ち取る前に作戦が
破綻してしまうからなのです。
(イメージ)
吉良の寝所を突き止めた赤穂浪士達、寝所を中心に抜け穴が
あるのでは?畳を起こしたり、天井を突いたり・・・。
そこで一筆茅野がしたためます。
浅野内匠頭家来
大石内蔵助を始め
若者共四十七人
寝所押込修所
上野介殿??
不被成御?
一部漢字が読みきれませんでしたが、赤穂浪士47人は
きちんと吉良の寝所まで到達したという証を柱へ打ち込んだ
訳です。
忍者等も忍び入った先に目印を打ち込んで、ここまでは来た
と言う証を残すのが流儀なのだそうで・・・。
つまりは、もし万が一吉良を討ち漏らしたとしたとしても。
赤穂浪士は寝所まで到達したが、そこには吉良は逃げて
おらず正々堂々と戦わない。あいつは武士の風上にも置けな
い弱っちぃ奴だ。ここまで我々は達したという宣言を書き置き
後々の為に知らしめておくという。広告代理店ような発想を
彼等はとっさにとっている訳です。
※江赤見聞記より
例え討ち漏らしても。吉良はもう武道不覚悟の烙印を後の
人々から嘲笑させ晒し者にしようという。
大石内蔵助以下、47人の反実仮想力の凄さ。
もし〇〇が〇〇だったら、こう。もしこうだったら、〇〇。
というように、咄嗟の判断と緻密な計算が47人に浸透して
いた訳であります。
(吉良邸の現地へ入りました)
マンセル:寝所があったであろう付近へやってきました。
今見えているこの周辺の住宅地や道路、全てが吉良邸の中。
現在の両国の街ですが、ここ全てが吉良邸でした。
グラハム:現在は郵便局にもなっておりますが、この付近
が大体の位置?でして。道路突き当たりに見えるマンション!
あの付近が吉良邸の裏門があった辺りです。
マンセル:表門からは直線でもおよそ100m付近。
果たして吉良はどこへ!?
(イメージです)
時代劇や映画、歌舞伎などでは。吉良は炭小屋に潜んでいた
なんていうクライマックスになりますが・・・。
実は、ここには居なかったんです。
すると・・・台所付近で動きがあります!
間十次郎が台所付近で人の気配を感じます。
戸板を開けると、台所奥の物置から。赤穂浪士達へ向けて
幾つかの食器類が飛んできます!
それは吉良上野介が外の赤穂浪士へ向けて最期の抵抗でした。
これが炭小屋だったら、食器類は置いてませんからね。
いわゆる台所奥の物置だったのです。
※泉岳寺資料映像より
中から家臣の2人が飛び出してくる。
その内の一人が清水一学だったそうですが、彼もあっという
間に一向二裏作戦であっというまに斬られたという資料も
ありました。殆ど抵抗できずに討ち死にという資料も。
間十次郎、吉田忠左衛門、寺坂吉右衞門の3人か?
表では既に山吉新八は既に斬られており、中小姓以上の家臣
達は殆ど全滅しているのでありました。
間十次郎が台所の物置へ向けて槍を何度も突き立ます。
(イメージですが、炭小屋ではありません)
そして、間十次郎の突いた槍は吉良を捉え。
吉良上野介はここで
絶命するのでした・・・。
後の幕府の検死によるところ、吉良は槍を腹部に受けた際。
素手でその槍を抜こうと必死に抵抗したという。
いわゆる防御創が認められたという・・・。
討ち入り開始から1時間30分
こうして赤穂浪士47人は、
本懐を遂げるのでした。
※赤穂分家済美録より
吉良上野介は台所で間十次郎の槍に刺されて絶命
6:泉岳寺までの道のり・・・
(本当は予定にない行動だった?)
は、次の記事へ。