吉良上野介を見事に討ち取り、吉良の亡骸を47人が囲み
勝ちの気をあげた赤穂浪士達。
室内の明かりや、ひっくり返した火鉢や他、蝋燭を消火し。
吉良上野介の首を井戸で洗い、亡骸は寝所の布団に寝かた
という訳ですが。
(こちらが現在残る、首洗いの井戸)
マンセル:ちょっとおっかねえ〜な・・・ここ。
グラハム:堪りませんねぇ〜・・・。
(ここで亡くなった吉良上野介公)
吉良邸の中には22人の亡骸が転がる惨状になっている
訳で。赤穂浪士達は返り血を浴びている者も多い訳です。
しかしながらここでも、大石内蔵助以下47人は全く安堵
する事はありませんでした・・・。
幕府側の鎮圧部隊や、上杉家からの応援部隊等の到着がある
のでは?と。最新の注意を怠ってはおりませんでした。
どこまで真実か?最後まではっきりしませんでしたが、
吉良の首を取り返しにやってくるであろう?上杉家の援軍と
の乱戦を想定して、首をすり替えて。本物の首は船で泉岳寺
へ?あるいは、掲げた首の替わりに血のりをつけた籠を掲げ
たのでは?という。様々な説が出るものの、どれも確証が
得られるものはありませんでした。
しかし、確証のある史料では。幕府からの命令で、上杉家
に向けて。仇討ちの仇討ちは為すべからず!
という触れが出たようで、当時上杉家上屋敷は、現在の法務省
のある霞ヶ関付近にあったという。
そこから、両国方向へ援軍を差し向けるという場合も同様。
幕府の要所を通る事にもなり、江戸の街を混乱に落としめる
格好になる。ますます大事件に発展しかねない状況を、幕府
は事前に制した格好に・・・。
(イメージです)
吉良の首を掲げての、泉岳寺への行軍中。
6:泉岳寺までの道のり・・・。
(本当は予定にない行動だった?)
(どーも!)
マンセル:現在残されているこちらは、公園になっており
まして。実は、赤穂浪士討ち入りの後。吉良家はここを幕府
から取り上げられまして、町民達へ払い下げられる事になり
ました。つまりは没収されてしまったんですね。
グラハム:しかしながら、吉良家の為にという事で。
有志によりまして、約70分の1位の土地を購入して。
公園として、そして、ここで亡くなった吉良上野介と、その
家臣達を祀る屋代が建てられており。
毎年義士祭はこちらで行われております。
(こちらは現在の吉良邸裏門前)
さぁ、赤穂浪士一行は本懐を遂げ。全員が一路泉岳寺へ向かう
というのが。定番だった訳ですが・・・。
(さてさて、この後の行動ですが・・・)
マンセル:まあ、みんな。大体の人はこの後13km先の
泉岳寺へ向かうと思うでしょ!?実はそうじゃなかったんだ
よ!
グラハム:どうしようというのでしょうか?
マンセル:まあ、その前にだ。この企画の冒頭にあった
疑問!覚えているかな?
周辺の大名達はどういう行動をとったのか?
実は具(つぶさ)に調べた人がいるので、そちらを紹介しよ
うと思うぞ。
まず、裏門に最も近く。高張り(高提灯)を掲げたという
土屋主税の家では・・・。
はじめの火事だ!火事だ!という声、これはどうやら聞こ
えていたらしいのだが。
庭に出てみると喧嘩のように見えたらしく、当主主税は家来
と共に塀際まで行き。
吉良邸の中へ声を掛けたところ、片岡源五、原惣右衛門、
小野寺十内達が、吉良を討ち取り本懐を遂げたという返答が
あったという。
つまりは、隣で何か騒がしいな?と思ってはいたものの。
実際中で何が起きているのかまでは、把握していなかった
のだ。
この事だけでも、土屋主税宅ですら中の状況がわかってい
ないにも関わらず。討ち入りの最中に高張り(高提灯)は
建てられる理由も無い筈で、更に資料にはそれを聞いた後に
高張り(高提灯)を掲げて警護した。という記述もあるの
だが・・・?これも少々怪しい。
というのも、討ち入ってから1時間30分でこの騒動が
決着しており。吉良上野介は隠れて夜明けを待っていた。
夜が明ければ、幕府や上杉からの援軍で助けてもらえると
そう思っていたからなのだが・・・。
しかし、時既にもう夜が明けて空が白み始めているにも
関わらず、提灯の灯りが必要だったのか?
という点においては疑問でしかない。
もう明るくなり始めているのにわざわざ提灯を灯すだろう
か??と。むしろ、赤穂浪士達は火を消して歩いている訳
なのだから・・・。
少なくとも、討ち入りの最中。土屋家が討ち入りに気付いて
庭を高張りで明るくした。という事は基本的には無かった、
だからこそお家は存続できたに過ぎないのであって。
討ち入りの時には彼等は全く気付いてはいなかった。
というのが正しい解釈だろう。
ドラマや映画、歌舞伎などでもこのシーンはあってもこれは
嘘である可能性が相当高く。
先に出した、あの芸人風情の話はやっぱり嘘だったという
結論に至れる。
更にそれを証明するように、同じ北側に隣接していた本多
孫太郎の屋敷の状況も見えてきた。
本多家も吉良家と隣接した北側に居住しているが。
当夜騒がしいので外へ出てみると、吉良家の屋敷で火が出た
ようだったが。中の様子は全く分からず、その内に静かに
なってしまった為。その時討ち入りがあったとは知らなかった
という。
本多家でもやはり、中の様子は全く把握できておらず。
火事かと勘違いしたのだが、すぐに静かになった事で沈静化
したものと思っていたのだから。
彼等とて同じ条件の下でも、同じ対応だった訳で。
土屋家とは違って、表門寄りだったのもあって。結果中で
何が起きていたのか?というのは、先にも報告したように。
表門部隊は静かに静かに潜入していった事を、より証明する
証言でもあり。
同様に表門の道路挟んだ向かいに住んでた、旗本の牧野一学
成純(長門)の屋敷では。
吉良邸での物音には気付いた様子。火事のように方々で声が
したので出ていったのだが。大きな声は聞こえたものの、
中の様子は全く分からず。万が一の時に門番をつけたものの
その後何もなかったのでそのままにしていたという。
大石内蔵助以下、赤穂浪士47人は。見事なまでに、静かに
そして大胆な作戦でもって、この討ち入りを成功へ導いた。
そう言えるのではないでしょうか?
(しかし、ここからがまた一波乱?)
マンセル:いよいよ、吉良の首を掲げて移動だね。
グラハム:ささ、次の場所へ向かいましょうか?
(こうして、我々も吉良邸を後にします・・・)
(回向院)
(はい、到着!)
マンセル:回向院へやってきました。
グラハム:ここは、吉良邸からすぐ隣にありますお寺です。
(地図をご覧ください)
このすぐ隣にあります、回向院。ここへ赤穂浪士達は避難を
して、幕府へ討ち入りの終了を報告し。ここで幕府からの
沙汰を待とうと、立ち寄ったのですが・・・。
回向院側は、赤穂浪士達を受け入れる
事を拒んだ。
返り血に塗れた赤穂浪士達をここで引き受ける事で、幕府から
目をつけられる事もあっての事か?
あるいは、仇討ちの仇討ちに巻き込まれる可能性も考えての
判断か?詳細は解らないままでしたが。
大石内蔵助と赤穂浪士達は、ここに避難していれば。
上杉家からの援軍や幕府との交戦も避けられるという判断も
あったのでしょう。
ここで大石達は、突如路頭に迷う格好になったのです。
(引き続き、回向院前の二人です)
マンセル:弱ったなぁ〜、ここを避難所にするつもりが。
まさか追い返されるとはねぇ。
グラハム:そりゃねぇ〜殺人犯した人が逃げ込んで来られ
ても、普通の人なら慌てますよね。
マンセル:とはいえ、お坊さんだぜ!?
グラハム:一応仇討ちとは言えども、手段ともあれ殺生だか
らねぇ〜・・・。
(さぁ〜どうする?大石内蔵助!)
マンセル:またここでも諸説生まれてしまう訳ですね。
グラハム:泉岳寺まで13km、この行軍が。後々の彼等は
再仕官へのデモンストレーションだった説とか。
マンセル:あるいは、単にこの忠義の戦いでお家再興を
狙ったのか?と、どんどん真意とは別に尾鰭に背鰭も付いて
勝手に動き回るのでしょうね。
グラハム:流石にここでのパフォーマンスまでは、彼等として
もそこまで計算にはなかったかもしれませんし。
広告代理店のような用意周到さとも違う事態だったに違いない
でしょうね。
(で、この先)
マンセル:この道を真っ直ぐ進むと、両国橋があります。
グラハム:隅田川だね。
(パンダウンしました、他の人が映るので)
マンセル:そうなんだ、隅田川のこちら側。
一応現在は東京都だけれども・・・
グラハム:当時は下総の国、現在で言えば千葉県!
マンセル:つまり江戸じゃないところでの襲撃事件な訳
ですから。完全武装のまま江戸へ入ると・・・?
グラハム:幕府への反抗!?とも取られてしまう・・・。
ましてや、このまま真っ直ぐ両国橋を越えた先は。
マンセル:八丁堀に、小伝馬町といった。同心達の居住
エリアだったり政治犯の入る牢屋のある場所でしたからね。
このまま進んだら・・・幕府と全面衝突してしまうね!
(しかし、行き場のない浪士達・・・)
マンセル:ひとまず、両国橋へ向かいましょう。
グラハム:大石内蔵助の足取りを辿りますよ。
(2年前の映像、両国橋のたもとに着ました)
マンセル:急に着替えた風に見えますが、実は2年前の
映像ですよ。
グラハム:ここだけタイムパラドックス起きてますが・・・。
大高源五がここで再び登場です。
この石碑ですが実は、この周りには何もこの石碑を説明する
看板も。あまつさえ作者は誰なのか?読み手は誰だったのか?
すら掲載されているものはありません。
しかし、一部の忠臣蔵の時代劇の中で登場している事もあり。
他にもいくつかの資料を元に判明しました。
日の恩や 忽ちくだく 厚氷
大高源五
これは直訳したら、太陽の暖かい恵みがあれば、どんなに
厚く張った氷でも溶かしてやがては春が来る・・・。
という解釈もできますが。
日の恩=浅野内匠頭からの恩恵。
厚氷=吉良上野介という仇。
としたら。主君、浅野内匠頭がいつもくれる暖かい恩恵を
受けた我々は。吉良上野介という厚く割るのも大変な氷を
打ち砕いて、ようやく我々に春が訪れました。
という解釈にも取れるでしょうか?
マンセル:そーなんですよ、ここにこの石碑だけは何の解説
も何も立ってないんです。
グラハム:このちょっと広いスペースに?赤穂浪士達は一旦
集結したのでしょうか?
マンセル:この橋を越えた先は、まさしく江戸の街です。
グラハム:後々ここを葛飾北斎や他多くの著名な偉人も渡る
事になるのですが。大石内蔵助一行はどうする!?
ここで大石内蔵助は、主君が眠る泉岳寺へ向かう事に。
しかしながら、両国橋を渡ればそこは小伝馬町。
その先には八丁堀と、幕府の要所がある訳で。そのまま進め
ば完全武装の浪士達との衝突も・・・?
そこで進路を南へ、永代橋方向へ進み。
更には、かつて居住していた。浅野家があった築地へ向かう
訳です。
ここだけ急に小山まりあちゃん登場!と相成りましたが。
築地、現在の聖路加病院の隣は、刃傷松の廊下事件で取潰し
になった。浅野内匠頭の上屋敷がここにあった訳です。
この付近を赤穂浪士達は通過してゆきます。
更には、築地本願寺前を通過してゆきます。
そして一行は、3時間で13km先にある泉岳寺へ到着する
のですが。
先の方にも述べたように、全員10kgにも及ぶ重量の武装を
したまま故の行軍だったので。
途中で籠に乗せられて行く者などもいたそうです。
現在だったら、都営浅草線1本がほぼ同じ道筋を行く形に
なるのでしょうね。
(都営地下鉄浅草線、京浜急行線、泉岳寺駅)
からのぉ〜・・・。
(はい、どーも!)
マンセル:ぼく達は歩いていたら、いつになるのか?わかり
ませんから。電車に乗ってきました。
グラハム:そこは文明に頼りますよw当然でしょ!?
(パンダウンしまして)
マンセル:さて、討ち入りに成功した大石内蔵助と46人
の赤穂浪士・・・と言いたいところですが・・・。
グラハム:寺坂吉右衛門だけは、この討ち入りの報告の為。
兵庫にいる陽成院の元へ連絡に向かいます。
(こちらが泉岳寺方向)
(こちらが、歩いてやってきた銀座、築地方向)
マンセル:あの先に、高輪ゲートウェイ駅ができるという
事なんだね。
グラハム:つまりこのゲートウェイというのが、いわゆる
江戸と武蔵の国とを分けるまた県境にもなっているんだね。
(つまりは!)
マンセル:大石内蔵助一行は、江戸を無事にすり抜けて
ここまでやって来られた訳ですね。
グラハム:先にも書いたように、幕府は。仇討ちの仇討ちは
せぬようにという事もあり。更には、当時。今じゃテレビ
だネットニュースだで知れ渡る事件も。
当時既に赤穂浪士が討ち入ったという情報が拡散されている
状況でした。
マンセル:瓦版とか口コミがその話を一気に広めた形になった
ようです。
(これから向かいたいと思います!)
マンセル:それでは、泉岳寺へ向かいましょう。
グラハム:あと少しでこの企画も終わるよ!
(石碑ですが・・・)
(見えますか?)
マンセル:どうにも?四十七士・・・???とは読める
のですが・・・。
グラハム:きっと赤穂浪士の墓はこちら?的な事なのでしょう
かね?
(泉岳寺山門へ)
マンセル:ようやくここまでやってきました。
グラハム:彼等はここに眠っている主君、浅野内匠頭の墓前へ
吉良の首を引っさげてやってきました。
マンセル:ここには大石蔵之助さんの像が立っております。
グラハム:彼等の本懐を遂げたというのは、美談としては
多く語られる訳ですが。
お坊さん達も彼等へ、いわゆるサイン攻めに会うのですが。
一方では、殺生な訳ですから。後から落ち着いてくるとその
辺りの冷静さもまた備わる訳です。
マンセル:それでは中へ入って行ってみましょう。
(更に中へ)
(お墓や他はこの左手奥)
(その前には・・・)
この石と木には、先にあの新橋で切腹した。
浅野内匠頭の鮮血が飛んだという、その時の石をこちらへ
運んだそうです。
元々はこの辺りにあったという・・・。
更には墓前へ奉納する前に、もう一度ここで吉良の首を
洗ったという井戸も残されております。
こちらは噴水の池にも見えますが、実はこれ!
両国から泉岳寺までの行軍の際の隊列を模したものでして。
こちらの資料を基に配置されていたものでした。
どこに誰が歩いていて、誰が吉良の首を掲げていたのか?
そんな事の事細かなシフトまで読み解けるようになっており
ます。
彼等はこのフォーメーションを見てもわかるように、上杉家
の援軍や幕府との衝突等。あらゆる状況において警戒を一切
この時点では解いてはいなかった訳です。
(そして、泉岳寺周辺の地図です)
泉岳寺へやってきた赤穂浪士達・・・。
彼等は、細川家や他数件の大名屋敷へ身柄を預けられます。
今回の討ち入りの一件においての処罰をしばらく待つのでした。
(マンセル、ここが泉岳寺。今いるところ)
(こっちが大石内蔵助他16人が預けられた細川家)
そして、彼等全員に切腹の沙汰が降りました。
あら楽し 思ひははるる 身は捨つる
浮世の月に かかる雲なし
大石内蔵助
彼の辞世の句です。
今回写真では公開できませんでしたが、大石内蔵助切腹の時
の絵もあるようでして。
絶命して行く時に、彼は全ての任務を終えた安堵感なのでしょ
うか?穏やかな亡き顔だったという絵も残されております。
泉岳寺の赤穂浪士47人の墓石配置図。
それぞれに預けられた家毎に固まってここに眠っております。
そして、来訪したこの日。なんて事のない日曜日の昼であっ
ても。ここはお線香の煙が漂い、花が手向けられておりまし
た・・・。
確かに、赤穂浪士討入りは。
赤穂浪士は善
吉良上野介は悪
という構図が出来上がっておりますが、果たしてそうだった
のか?忠義だけでは語られない事も多く散見しております。
幕府の経済政策の失敗、そこから江戸町民達の批判を交わす。
その目的の為に、この一件を利用して。批判の目を吉良へ
偏らせた!?そんな状況だったのではないでしょうか?
吉良上野介は幕府によって、あるいは歌舞伎や他。時代劇
でも映画でも、悪の存在のように見せかけるマッチポンプ
か幕府のプロパガンダに使われたとも思われる。
その実、この討ち入りに参加しなかった。元赤穂浪士達への
批判もあれば。
生き残った吉良家の家臣の中にも、主君を守れなかった不甲
斐なさにも批判や。嫌味なども多かったという。
これにより、上杉家も断絶になり。
先祖は足利家、更には、今川、上杉といった。戦国時代や
それ以前から続く名門の血筋は。この討ち入り事件でもって
完全に血脈は途絶えるという事に・・・。
そして、浅野家は後に大学による再興を果たすのでした。
赤穂浪士達の美談や手柄は、歌舞伎担当。
討ち入りに参加しなかった残りの250人、こっちは落語
担当。人間の業や苦しみ悲しみを説く事に・・・。
しかし、あの寺坂吉右衛門だけは晩年を生き抜き。
この忠臣蔵の真実を伝えるべく、生かされたというのも。
この事件を正しく伝える為に残され生かされたのでした。
それゆえに、彼の証言もこの事件を読み解く大きな鍵に
なった事は間違いありません。
そして、終戦翌年の両国です。
辛うじて両国駅が残り、黒い四角で囲ったのが吉良邸跡。
赤い四角で囲ったのが前原伊助の米屋。
青い線で描いたのが赤穂浪士が歩いたと見られる場所。
丸い建物は当時の国技館だそうです。後日取材により判明。
回向院は完全に消失していた訳ですし。吉良家も前原の米屋
も空襲で跡形もないのです。
で、両国駅から道路1本先のまだ焼け残った家屋。
この付近に現在は両国アクアスタジオがある辺りです。
そして現在の両国駅周辺の街並み。
きつねの裕子:全く繋がりのないように見える1702年
の出来事・・・。それより316年の後、こうして芝居や他
が楽しく見られるというのは。かけがいの無い、大事で
貴重で、幸せな時間。なのかもしれませわね・・・。
以上が、真実の忠臣蔵です。
そしてそれらを全て、現地にて実際に足を運んで見てきた
この企画もこれでおしまいです!
長らく読んでお付き合い頂きましてありがとうございました。
最後に、大石内蔵助像を・・・。
祝!ブログ開設10周年企画
忠臣蔵完全現地中継!リアル歴史の旅
これにて終了!
長らくお付き合い頂きまして、ありがとうございました!
2年の歳月による取材は、ここまでです。
byがむばるベアーズ