2011年10月24日、17時35分・・・
母ちゃんがこの日この時に永眠しました・・・。
合掌
まず、去年の母親の逝去の際に、ツイッター、ブログ等に多くの
コメント、お悔やみ、弔電を頂きまして。
改めてこの場をお借りして故人に代わってお礼申し上げます。
インターネットを通じて知り合った多くの皆様から、たくさんの
励ましや、元気、パワーを頂き。どれだけ今の自分が立っていられる
のか分からないくらいです。
一度でも逢った事のある人、あるいは全く面識のない人。
そういう分け方も不思議ですが、かくも多くの皆様にご心配をおかけ
しましたが。
この1年で、何とか気持ちでも戻って来る事ができました・・・。
今度は自分が、辛い人悲しみに暮れる人に手を差し伸べられるような
そういう人になろうと思う所存です。
~くまろく←(@second_bace)より~
あの時から丁度1年を迎えました・・・。
この1年。あっという間に過ぎて行き、色々な事に忙殺され。
気が付いたらあっという間1年です。
その間にも、母親方の兄弟が立て続けに2人も他界し。
この1年は喪服を仕舞うヒマもありませんでした・・・。
1年の間に3人も天国へ旅立ちました・・・。
本来は裳中なのですが、今まで以上にこの1年間。ライブに舞台観劇に
イベントにと出歩くようになり。
静かな1年というよりも、いつも以上にワイキャイし過ぎました。
ですが、言い訳します。
母ちゃんにも楽しかった記憶を少しでも分けられるように、今まで
以上に繋がりを深められないものか?と、この1年は過ぎて行った
感じがします。
お陰でこの1年で進展した事がたくさんあるので、それが形に
なるように努めたいと思います。
【ありがとう、母ちゃん・・・】
ガンの野郎、大人しくしていればいいのに!
暴れ出しやがって!
ガンの野郎!また悪さしてやがる!
それが母ちゃんの最期に等しい言葉でした。
本当に最期の言葉はここでは言いませんが、この一言は今でも
家族の中ではしっかりとその記憶に残されております。
母ちゃんはどんなに苦しい状況であったにも係わらず、諦める
という心境には無かったのです。
最後の最後まで、戦っていました。
ですもの、私や家族はその戦いから逃れるなんて事は、できない
訳ですよ。一緒に戦いを挑まないとなりません。
当時のブログ記事はこちらです。
http://ameblo.jp/principality-of-wan/archive1-201110.html
10月17日。
ガンに浸食された左肺は、ガンが気道を塞ぎ。
折角胸膜拡張措置をした8月の治療も虚しく、左肺はその機能を失い。
問題の無い右の肺には、新たな転移。
右胸にも新たなシコリが発見され、更には、
誤嚥性肺炎を起こし、一つしかない肺への
酸素供給能力が低下してしまいまして。
それによって、二酸化炭素の濃度が上昇し、
血中酸素濃度が計測できないまでに落ちてしまいました。
ガンの侵攻は留まる事知らず、一気に進行してしまい。
遂に延命治療をここで終了せざるをえなくなりました。
当時の記事をそのまま抜粋しました。
この時は、本当に悲しかった!辛かった!そして、申し訳なかった!
完全にガンを治してあげることができなかった・・・。
完全にこのガンを取り除く事ができなくなってしまった・・・。
そこへ更に、絶望的な説明を医者から聞いたら。
その話を親戚や家族にもそれを伝えなくてはならず。
正確に間違いや誤解を与えるような説明はできない・・・。
とにかくこちらは追い詰められた様な、そんな心境を表に出さない
ようにも勤めていたので。
もう、どうにかなるんじゃないのか?
そんな時間が流れて行きました・・・。
医者との面談で、今までの経緯を鑑みて。
どこかで治療の道を間違えてはいないか?
僅かな疑問一つ残さず、全部聞いた。
一つでも僅かでも後悔を残したくなかったから!
しかし、そこはガン専門の医療機関だった・・・。
その答えは殆ど明瞭に帰って来た・・・。
まず、ガンの再発時に肺の一部でも切除できなかったのか?
もしそれをどこかの段階でやっていたならば、今日まで持たなかった
でしょうと・・・。
手術をどの段階で行ったとしても、体力を奪われ寿命という言い方
は申し訳ないが。今より遥かに短いものだったでしょう・・・。
抗がん剤の選択、この秋に変更した事については・・・?
そのタイミングは適切だったのか?
11年の間、お母さんががんばってがんばって抗がん剤を打ち
続けて来ました。
これは、相当長い方で医者からみてもびっくりする長期間で。
今まで使っていた抗がん剤が有効だったからこそ、持ったのです
が、それまでは弱いガン細胞は抗がん剤によって消えて行った
のですが。
長期に渡るとどんどん強いガン細胞だけが残る様になり、抗がん剤
も少しずつ強くして行かねばならなくなり。
結果的にガン細胞が残ってしまう事になってしまう。
抗がん剤を打ち続けても、平均で5~6年しか持たないのが一般的
ですが。発病して11年、病院を転院してから9年間は本当に長い方です。
がんばったお母さんを褒めてあげてください。と・・・。
更には。
ガンは一度発病して、大きな部分を切除しても。
その後の再発においては、もう一生の付き合いですから。
10年20年発病しない場合もあれば、若くして4年5年で再発する場合や。
再発しない場合もある・・・。
その人の生涯に渡って、ガンとの付き合いを考えないとならないのです。
頭の先から足の先まで、どこにどうできるのかは分からないのですが。
きちんと管理して、どこにできるのか分からないですから。
膝を突き合わせて付き合う事が大事になってきます・・・。
そして、ガンそのものが直接原因で死に至る事にはならなくて。
例えば抗がん剤治療の帰りに、副作用でめまいが起きた時。
謝って駅のホームから転落してしまうとか。
自宅にいて、ふと倒れた時に頭部を打ち付けて亡くなってしまう等。
ガンが命を奪うのではなく、ガン治療の最中で何らかのトラブルが起き
たり。遠因ではあるが、ガンが直接原因になるというものは起こらない。
という、今まで聞いた事ない話を聞かせてもらいました。
脳への転移の時も、てんかんを起こしたり。
あるいは意識喪失した際に倒れて、車に轢かれたり。
ホームから転落してしまう等。
2次、3次要素が係わって来る。だからこそ、付き添える人が常時いる
事がどれだけ患者に対して助かるか・・・。
それだけ、私が病院への通院に対応できたのは非常に延命に大きく
貢献できた。
という話を聞かせてもらい・・・。
最後の最後に親孝行できたのかな?と、自分を少しだけ認めてやろうと
は思いました。
ですがとうとう、延命という選択肢を失くしてしまい。
その後は、 ”緩和治療” という概念になってしまいました・・・。
そう、後は苦しい思いをさせないように、モルヒネを半日に1回ずつ。
まるで針付きの磁気テープを貼るように、モルヒネのテープを貼る様に
なっていきました・・・。
真綿でゆっくりと絞めて行く様な・・・そういう表現になってしまいました。
確かに一時期の苦しそうな表情ではなかったです。
更には、問題の無かった肺には新たなる転移を確認し。
右胸にも新しいシコリが確認され、肺炎を起こしてしまっている。
これ以上、これ以上にどんな仕打ちがあろうものか・・・。
私はもうどうする事もできず、せめて最後にできた事・・・。
それは、母ちゃんの手足を必死に摩ってあげて。
手足の乾燥を少しでもよくなるように、水嶋那緒ちゃんから教えても
らったボラージクリームを塗ってあげることだけ・・・。
だから母ちゃんの手足はスベスベになりました。
個室状態のICUの室内は、ポーンポーンポーンと、母ちゃんの心拍
が聞えており。
胸に付けられたバイタルを常に監視しながら、容体を確認して
いました。
その部屋の中で横になった前日の夜。
まるで母ちゃんの中に帰ったかのような・・・。
体内回帰したような居心地に襲われ、布団もベットも無い椅子の
上で熟睡できたのは。後にも先にもありませんでした。
やっぱり自分はこの人の子供なんだな・・・。
こんな時になって、こんだけ実感した事はありませんし。
もう二度とこんな心境に陥る事は無いんだろうと思いました。
嬉しくて泣いていました・・・。
ベットの上で寝ている母ちゃんと、最後に見た菊花賞。
オルフェーブルが見事に三冠を達成し。
携帯電話のワンセグで一緒に見あげて観戦。
”母ちゃんわかるか?また三冠馬が生まれたよ!”
言葉は無く、うんうん。と頷いていました。
母ちゃんは最後に三冠馬、オルフェーブルを見ました・・・。
ですが、24日17時頃。
その日はICUに泊るつもりで、エクストラベットをセッティング中の事です。
ポーンポーンポーンの音がしていないのと、呼吸してないのを
見つけました・・・。
看護師さんも、機械が外れたのかと思って飛んできてくれたものの。
既に息はありませんでした・・・。
母ちゃんは静かに天国へ昇って行きました・・・。
先生が来るまで、ひとしきり号泣しました。
助けてあげられなくて、ごめんよ!!
でも、よくここまでがんばりました!!
最後の最後まで諦めずに病気と戦った、母ちゃんの戦いの歴史は、
全部私が拾ってあげるから。
他人に伝えるから、忘れないようにするからな・・・。
ツイッターでも散々この頃つぶやいてましたが、心から嬉しい一言が
ありました・・・。
それを紹介して、この企画を閉じたいと思います。
それ以降の出来事は先ほどのURLのページをご覧ください。
続き:http://ameblo.jp/principality-of-wan/archive1-201110.html
ツイッターのリプライより・・・。
ツイッターを読んでいて何と言って声をかけるべきか。ずっと
迷っていましたが、私も同じ女性としてお母様のような強い母親に
なれるようにがんばりたいと思います・・・。
(一部抜粋)
今日までの戦いに、こんな嬉しい一言はありません!
同じ女性から、自分の母ちゃんのような女性になりたい・・・。
そして、私はそんな母ちゃんを誇りに思います。
11年間の闘病の先に、こんな嬉しい言葉が待っているとは
思ってもみませんでした!ありがとうございました!
ありがとう、母ちゃん!!
また次生まれて来る時もみんなで親子しような!!
私はそう言って、母ちゃんの棺の蓋を閉めました。
連載企画:かあちゃんが全部教えてくれたこと・・・最終回にします。
もうあと1回とも思いましたが、少々長くなっても納めようと思いました。
更には、この次に書こうと思った内容は、去年書いた事にも
ほぼ近いので、ダブらせても・・・という判断です。
1年間に渡って書き続けましたが、みなさんの為になったかどうか?
わかりませんが。
これだけの出来事は、他でもなく全部母ちゃんが教えてくれた事
の数々です。
そして、これらを読んでくださいった皆様へ。
最後まで熟読して頂きましてありがとうございました!
ガン治療には答えはありません。
しかし、どんな病気であったにせよ。”上手に付き合う”という言葉を
何度も聞いて。通院に闘病してきた11年間に、間違いはないと思って
おります。
そして、ありがたい話。
今月も母ちゃんを忍んで、お線香を手向けに来客があります。
1年過ぎても時々母ちゃんは夢に出てきてくれます・・・。
”いろいろとやってもらって、悪いね・・・”
と、冷蔵庫から缶コーヒーを持ってきては、枕元に置いて行く姿を
何度か見ております。
もちろんそこには缶コーヒーなんかありません。でも冷蔵庫には
同じ缶コーヒーは入っています。中を開けて見ているんでしょうね。
母ちゃんはしっかりと今も自分の中に“生きています”