今日は、こころのケアの学びのなかで
「もし、クライアントから『もう生きる希望がない…死にたい…』と言われたら、あなたはどうしますか?」
という課題が出されました。
この問いを投げかけられた瞬間、私は2つのことを思い出しました。
1つ目は、ホスピスのチャプレン(グリーフケアをされている牧師先生)の講義のなかで、
「『死にたい』と訴えさせない雰囲気作りではなく、気兼ねなく『死にたい』と訴えていただけるような環境作りを目指しましょう」
と習ったことでした。
「死にたい」というのは「楽になりたい」ということであり、その背後にはその人の理想とする生き方や目的がある。
「死にたい」という要求に答えてほしいというより、要求する自分に応えてほしいと願っていることが多いのだと。
だから、冒頭の問いを投げかけられた時、私は
「『死にたい』と訴えられることは、決して悪いことではない。
ご自身の苦しみを安心して吐露して頂くことは、むしろ大切なことなのだ。」
と思いました。
そして、2つ目に思い浮かんだのは、数年前の情景でした。
まるでフラッシュバックのように時間を遡り、私の目の前には苦しむ元夫がいました。
夫婦修復に必死で取り組んでいたあの頃、元夫は「きつい、つらい…」と何度も言っていて、その度に私は「私だってつらいよ!」って心の中で思っていました。
けれどある日、元夫の話を聞きながら、私は大切なことに気づきました。
今までの私は、元夫の心に全く寄り添えていなかったのだということに。
それはつまり、私の心の傷が癒されていないから、その自分の傷にとらわれて、相手の心に寄り添うことができなかったのだと、ハッとしました。
それからしばらく経った、ある夜、私は元夫の話を聞きながら、ふと自分にとらわれず、ただ相手の立場に立って話を聞いている自分に気づきました。
それはまるで、自分が透明になったかのような不思議な感覚でした。
相手が話すことを、すべてそのまま受け入れ、こころから「つらいね…きついね…」って答えていました。
そして、二人で静かに涙ぐみました。
その時初めて、私は相手に寄り添うということの本当の意味を、少し知ったような気がしました。
元夫から「死にたい」と言われたことはなかったけれど、深い苦悩は同じで、私はまるで冒頭の訴えが元夫から発せられたかのような気持ちになりました。
そして、それほどまでに苦しまれるのは、どんなにかおつらいだろうと、クライアントの苦しみを思うと涙が込み上げてきました。
課題の答えをクライアントに話しかけるように答えてくださいと言われ、私はあの時と同じように
「つらいですね…きついですね…
どうしたらいいのでしょう…分からないですね…」
と言い、そうして一緒に涙を流すと思いますと伝えました。
この課題の返答から何を見られていたのかは分からないけれど、今の私にとってはこれが精一杯の“相手のこころと共にいること”でした。
対面で向かい合うような心の状態ではなく、隣に座って同じ方向を見ているような…
役に立とうとするのではなく、ただ苦しみを分かち合うような…
そんなこころのケアの在り方を、私はこれからも大切にしていきたいのだと、そう改めて思いました。
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