昨日は、お母さんを亡くしたばかりの友人と少しだけ話をする機会がありました。

友人は様々なことを話してくれ、静かに話を聞いていると私も涙が込み上げてきました。

その友人は、私の母が亡くなった頃のことも知っているので、二人でいろんな話をして、その日は一日涙腺が緩んでいました。



込み上げてきた私の涙は、友人の悲しみを思う涙と、私自身の過去を思い出す、その両方の涙でした。

母との死別から20年以上経っても人は涙が溢れてくるのだと、どれほど時を重ねても悲しみや切なさは色褪せることなく心とともに在り続けるのだと、心の不思議を思いました。

人は話をすることで「感情を再体験する」ということを、精神対話士の講義で習いました。

涙を流し、再び感情を感じながら、客観的に出来事を見つめ直していくのだと。

母を亡くした13歳の頃の私は、今思えばその当時誰かに思いを語るということがなく、ふと襲われる寂しさにも一人で耐えていました。

そして、その前に長女としての役割を生きることで精一杯で、悲しみに浸ることができなかった。

けれど、そうして無意識の領域に湛えられた悲しみは、いろんな生きづらさの形として表れるようになり、それから長い時を経て、ようやく私も感情を再体験できるようになったのだと感じました。







誰かの話を聞いて涙が込み上げてくるなんて、そんなことで心のケアができるようになるのかなと思った時、指導精神対話士の方のお話を思い出しました。

震災の避難所で、何枚ティッシュを使ったか分からないくらいに、ともに泣いたと言われたお話を。

そして、感情に呑まれるのでなければ、ともに泣いても良いのだと分かりました。

時には、ともに泣くことが、相手にとっても、また自分にとっても癒しへの助けとなるのかもしれないから…

「自らの傷が、相手の癒しとなる。」

少し前に教えて頂いた、この言葉の意味が少し分かりました。



ともに悲しみ、ともに苦しむこと…

それは、相手の寂しさや切なさを共に担い、分かち合うことなのだと感じました。