私はプロテスタントのクリスチャンです 本 キラキラ

キリスト教の教会では、毎週日曜日の午前中に日曜礼拝という集まりがあります。

前回の日曜礼拝の説教のテーマは、「悪魔の存在と神」でした。

聖書箇所は、詩篇73章

どうして悪が栄えるのを神様は許すのですかと、苦しむ人々の思いが書かれているとても有名な箇所です。

「神が正しいならば、なぜ悪は存在するのか?」

という議論を、神義論というそうです。

善にして全能なる神がおられるのに、なぜ悪がはびこり、栄えるのか?

いっかいの被造物である私達が、全能の神様の全てを理解することはできない。

そして神様が悪を許し、忍耐を示されているのは、私達自身の悪に対しても同じだと。

神様は見過ごされているのではなく、悔い改めを待っておられる。

私達は自力で自分を清めることはできないから。

(自力というのは、毎週必ず礼拝に出席し、毎日聖書を読み、たくさんお祈りし、罪を犯さないように気をつければいいという表面的な行いばかりを見ること。)









先日、「ローマ法王になる日まで」という映画のDVDを見たのですが、貧しい人々に教えを説く牧師や民間人が軍に次々と暗殺されていく描写に、なぜこんなにも残忍で無慈悲な歴史が繰り返され続けるんだろう…と、とても苦しくなりました。

悪が栄えるのは一時的であったとしても、その時期に苦しむ善良な人は必ずいるから。

「神様は最後には裁きを下される」と牧師先生は言われていました…。



全ての命は神様の愛から生まれ、愛により育まれ、全ての真理は愛。

暴力や恐怖で支配しようとしてきた独裁者も、きっと深く傷ついてきたからこその行い。

例えそうでも、負の影響は計り知れない。

『汝の敵を愛せよ。』というように、「神様、私を赦すように、この人をも赦してください。」と、自分へ武器を向ける人の赦しまでも乞う祈りとともに殺されていった、霊的に成熟した人達が歴史上にたくさんおられたのだろうと思いました。

言葉にならないほどの苦しみや悲しみが、なぜ今も世界で繰り返され続けるのか、分かりません…。

それでも神様は、愛と許しも与えてくださっている。

神様から人間への愛と赦し。
それゆえの人間同士の愛と許し。

どんなに人間が愚かでも、神様が私達を見放すことは絶対にありません。

分からないこと、なかなか改善されないこと、悲しみや苦しみもたくさんあるけれど、


神様に愛されているように自分を愛し、人を愛す。
神様に赦されているように自分を許し、人を許す。


そう生き続けるしか道はないのだと思いました。



自分と向き合い続け、自分の幸せと周りの幸せを求めて生きていく。

そんなことしかできないけれど、奇跡的にこの世に生まれてきた全ての命に、希望が託されていないはずがない。  

私はその自分の命も、人の命も生かしたい
神様の愛に応えたい

ただただそう思いました。









お散歩していたら、椿とロウバイが満開でした。

梅も咲きだして、見頃が楽しみですピンク音符