母屋から少し歩いたところに、応接用のはなれがある。

 

雨の日になると、友だちと遊ぶことも課外活動に出かけることもない。

そんな日は、父から与えられた課題である、

応接室で読書をしていた。

 

少年期の自分にとって、分厚い全集は近寄りがたい存在であり、

はじめのうちはページをめくることさえ重い作業だった。

しかし、読み進めるうちに、

作家たちが紡ぐ言葉の美しさや巧みな修辞に心を奪われるようになった。

知らない漢字や語句に出会うたび辞典を引き、

その意味を確かめながら読み進める時間は、

いつしか、小さな発見の積み重ねへと変わった。

 

とりわけ近代文学は、物語を読むというよりも、

その世界を生きる感覚に近かった。

登場人物の喜びや悲しみ、迷いや決断は、

幼い自分の心にも静かに染み込み、

ページを閉じてもなお余韻として残り続けた。

 

読書は、自分に「直接体験」だけでは得られない

大きな世界を与えてくれた。

他者の人生を知り、物語を疑似体験し、

自分では歩むことのない道を心の中で旅する。

その積み重ねは、未来を生きるための知恵となり、

人を理解しようとする想像力を育んでくれたように思う。

 

茶道や華道は、人としての在り方を学ぶ「道」であり、

無心の美を教えてくれる。

歴史は、史実を学ぶ学問であると同時に、

未来への教訓でもある。

日本史や世界史を通して国家は興隆と衰退を繰り返すことを知り、

中国史からは、優れた人物たちの志が国を興し、

政治の腐敗や統治の乱れが、

その繁栄を静かに崩していくことを学んだ。

 

文学もまた、多くのことを教えてくれた。

時代が変わっても、人には善悪があり、成功と挫折がある。

そして、一つの出会いや一つの選択が、

その後の人生を大きく変えていく。

その姿は、まるで見えない方程式が

人生を導いているかのようでもあった。

 

小学四年生から中学二年生まで続いた雨の日の読書は、

幼い自分に人生を予感させ、生き方を考える静かな道標となった。

それは知識を増やすためだけの時間ではなく、

自分という人間の土台が、少しずつ形づくられていく

時間でもあったように思う。

 

今でも短い文章を書くたびに、

構成を考え、言葉を選び、誤字脱字を幾度も確かめる。

自分にとってブログを書くことは、

自身の思いを綴るだけではなく、

日本語を学び直し、自分自身を見つめ直す時間でもある。

 

応接室の書棚には、現代文学全集、世界文学全集、

短歌撰集、俳句撰集、裏千家茶道関係書、

日本史・中国史・世界史の全集が並んでいる。

 

今振り返れば、それらは単なる書物ではなかった。

 

雨音に包まれた応接室で、自分は本を読みながら、

まだ見ぬ世界を旅し、まだ出会わぬ人々と語り、

そして、未来の自分と静かに出会っていたのだと思う。

 

窓を打つ雨音だけが静かに響くその部屋には、

時がゆるやかに流れていた。