進学後と今
 合格から入学までの間にも、奨学金がもらえなくなりそうになるなど色々大変なことがあって、四月の精神状況はあまり芳しくなかったように思います。

その頃、さらに私の精神をいびつにしたのは、自分を取り囲む無垢な自意識でありました。よく言われるように、東大には比較的暮らし向きの良い学生が多いのですが、彼らは自身の生が(少なくとも経済的に)特別恵まれているというような意識はなく(これは小中の頃の私が自分の生活状況を特段変わっていると思っていなかったのと同じ理由だろうと思われます)、このことは最初、私の心のはらわたを抉りました。

私から見てというよりは、日本人の平均に照らして経済的には幸運であったろうと思われる彼らは、それを自覚していなかったのです。井の中の蛙大海を知らずと言いますが、井の中の蛙は大海を想像することができる一方で、大海に生きてきた者は井の中を知らず、想像することもないようでした。

氷像のように透明な自意識と自尊心に囲まれた私の精神は再びピークを迎え、四方八方へ憎悪を向けることとなり、多くのものを失ってしまいました。今は少し落ち着きましたが、その頃落とした陰は今でも付いてまわります。

そしてまた、彼らの生が悪であるのではなく、そのような純真さこそ至高であり理想であるという事実が、私が高校の時分に切り捨てた大切なものを思い返させ、この点で彼らには一生敵わないのだろうという絶対的な劣等感を、私に刻みつけ今に至ります。

 今回このように自分の経験をお話しする機会を頂きましたが、私の「夢」は未完であり、途上です。その意味で、以上に述べたのは成功体験などではなく、これをそのように取り扱われるのは私に違和感と苦しみを感じさせます。現在は、本当に微力ながら後輩を助けられる立場にありますが、結局私自身もまだもがき続けなければならないのに変わりはありません。
 
 私は、世帯分離をして、自らの身体の一部を切り捨て前進するくらいの気持ちで進学しました。東京での生活に慣れておらず、学業のためアルバイトも出来なかった最初の一年は、苦労しました。世帯分離せず進学出来ていれば、もう少し楽だったのかなと思います。

現在はとりあえず生活も安定し(この安定はいつまで続くのだろうという不安は常に私のこころを曇らせるのですが、それでも)、研究者を目指して勉強しています。そして私と同じように学問を志す人間に囲まれ、切磋琢磨しながら向上できる現在の環境をとてもありがたく思っています。

そんな学友の尊敬できる点の一つは、学問に対する純粋でひたむきな姿勢です。彼らがそれをやるのは、ただそれが好きだからであります。一方で、私の精神は憎悪や嫉妬に犯され、そのほとんどが醜く焼きただれてしまい、そんな純粋な気持ちを損なっている気がしてなりません。もはや、学問をするのに誰かを恨む気持ちなど必要ないはずなのです。

 どんなに貧しい家庭で育っても、夢を叶えることができる。これは決して当たり前のことではなく、実現できれば極めて革新的であろうと思われます。そんなものすごいことを、実現しようとしてくださっている総理やその他関係者の方々には本当に感謝しなければいけません。生活保護家庭が世帯分離なしで大学進学できるようになることそれ自体は、はっきり言ってそれほど大きな前進ではありませんが、さらに前へ進むのに必要不可欠なはじめの一歩だと思います。

生活保護家庭に限らず、誰もが希望すれば、高校にも、専修学校にも、大学にも進学できる環境を整える、そのためにもぜひこの小さな一歩が実現すればと思います。