「源氏物語」「紫式部日記」クイズ 正解と解説は下にあります。

 

 

1.源氏物語は最古の長編物語か?            答え ・はい ・いいえ

 

2.源氏物語は現在残された順番で執筆されたか?     答え ・はい ・いいえ


3.「源氏物語」は当時のベストセラーと言われているが、どのくらいの範囲で読まれていたのか。

 

答え  ・貴族のあいだではほとんどの人が読んでいた。

   ・彰子サロンの関係者の女房および道長とつながりのある人々、和歌文芸に造詣の深い男性貴族は読んでいた。  

 

 

4.「源氏物語」では光源氏と天皇の中宮である藤壺の宮とのあいだに生まれた不義の息子が天皇家の血筋を継ぐことになるが容認されたのか

答え ・はい

   ・いいえ

   ・一時期を除いて物語として天皇も楽しんだ

 

5.摂関政治を実現するために娘の人格は無視され、入内(天皇の妻となる)した。娘たちは抵抗しなかったのか。

答え ・親の言うなりだった

   ・抵抗しても無理やり入内させられた。

   ・皇子を生んで発言権を得てから、自分の意見を言うようになった。

 

6.藤原道長にとって「源氏物語」と「紫式部日記」のどちらを後世に残したかったか。

 答え ・ どちらかと言えば源氏物語 

    ・ どちらかと言えば「紫式部日記」

    ・ どちらとも言えない

 

 答えと解説

1.これは厳密に定義しなければなりません。「源氏物語」は「世界最古の長編物語」ではありません。

  すでに紀元前850年頃、詩人ホメロスによって「イリアス オデッセイア」が成立しています。ギリシャ連合軍とトロイの戦争、その後ギリシャに帰還するまでの長い航海と帰国後を述べています。しかし、この物語は詩人ホメロスが作者であることから分かるように「叙事詩」の形式で書かれています。「イリアス オデッセイア」はヨーロッパの文学芸術文化に多大な影響を与えています。ここに登場する人物の心理状態から、精神医学の諸症状の名前も命名されています。

 

ですから、「世界最古の(散文で書かれた)長編小説」と言わなければなりません。女性が小説を書くようになるのは、その後600年700年を待って、フランス、イギリスで女性の作家が活躍するのを待たなければなりませんでした。

 

2.「若紫」から書き始め、「明石」の前半まで書き進んで、前に戻り、さらに「桐壺」を書いたのは、その後のことと研究結果が出ています。紫式部が「藤式部」から通称「紫式部」と呼ばれるようになったのも「若紫」の印象が読者には強かったのでしょう。また、「源氏物語」の最初の章「桐壺」の冒頭を高校時代に暗記させられた思い出がある人もいるでしょう。

名文ですよね。この文は、紫式部が書きなれて腕を上げていたころに書いたと言えば、納得できるでしょう。

「若紫」から書き進めて、友人知人の間で評判となったのを知って、道長は紙を提供し、書き進めることを促しました。ただ、このような長編になると道長も紫式部も予想していたかどうかはわかりません。

良く言われるように「小説の登場人物たちが勝手に動き始める」状態だったことでしょう。

 

3.「光る君へ」の時代考証を担当している歴史学者の倉本一宏さんは「皆さんが考えているほど、『源氏物語』は当時広範に読まれていたわけではありません」と発言していますし、同じく歴学者の本郷和人さんも「『源氏物語』をほとんどの貴族が読むようになったのは、室町時代からですよ」とおっしゃっていました。平安時代は和歌の達人としての和泉式部、赤染衛門などのほうが後世に名を残すと考えられていました。名声を望むよりも、みすぎよすぎとしてのお仕事を脱して、登場人物の設定、心理描写など、自分の書きたいことを書くという姿勢が世界文学史上トップクラスの作品を生み出したのかもしれません。

 

4.今では「愛される皇室」を目指しているように見えます。ですから、ご先祖様に欠点のある人がいようと「源氏物語」の構成がいわゆる「皇室の権威」に多少難があろうと、微笑んでおられる様子です。しかし、明治維新後発令された「大日本帝国憲法」では「天皇は不可侵だ」と規定されており、戦前の一時期「源氏物語」は不敬だと評判が悪いことがありました。

残念なことです。このような時代を二度と繰り返してはいけないでしょう。

 

5. 藤原家のなかでも権勢を誇っていた一門の娘たちは「天皇の后になる」ことを目標に育てられましたから、入内するまでは疑問を持たなかったでしょう。仲睦まじい一条天皇と中宮定子に割って入るように入内したのが彰子です。12歳でしたから、一条天皇の歓心を買うには幼すぎたし、定子の魅力にはかないませんでした。

そこで、「源氏物語」プロジェクトが始まります。

ところが、定子が第三子出産の際、難産のため亡くなります。彰子はその子敦康親王の親代わりとなって面倒を見ます。やがて自身の子敦成(あつひら)親王が誕生します。すると、道長は第一皇子敦康親王を差し置いて、彰子の子敦成親王を二代先の天皇候補にしようと、一条天皇に圧力をかけます。

その時、彰子は憤って「敦康親王が皇位を継承すべきだ」と理にかなった抗議をしますが、受け入れられませんでした。

彰子って優しく公正な人だったのですね。

 

6.現在、上記でも述べた「光る君へ」の時代考証を担当している国際日本文化研究センターの倉本一宏著「平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像」NHK出版新書刊を読んでいます。藤原道長の「御堂関白記」、藤原行成「権記」、藤原実資「小右記」をもとに平安貴族の実態に迫っています。日記については後日詳しく述べるつもりです。

そのなかで、「日記は藤原家にとってご神体のようなものだったので、火事の際にもいの一番に避難をさせたので、自筆の日記が残っている」と書いてあります。その結果2013年にユネスコ世界記憶遺産に登録されました。一門の子孫への為政者としての心構えとともに日々の宮中行事の式次第や手順などが記されており、貴重な財産となりました。

道長は、娘彰子の出産の際、紫式部に実家に随行させて経過を記録するように命じます。もちろん、紙も惜しげなく提供しました。ですから、紫式部が清少納言のことをあれこれ批判していたとしても、それは彼女の個人的な恨みつらみというよりも定子のサロンより彰子のサロンを持ち上げる政治的な意図によると解釈すべきでしょう。

しかし、かな文字で書かれた「紫式部日記」は出来事や行事より、彰子の出産の際の様子や紫式部の気持ちや感情が前面に出ています。「僧侶が何日に来て、お祓いをしたかとか、無事出産をした場合、どのような神事が行われていたかに道長は興味があったのでしょう。ですから、第二子誕生の際には執筆依頼はありませんでした。

 

一方「源氏物語」は「一条天皇を彰子サロンに通うように魅力的な物語を書く」のが主な役目だったのです。今でいえば、高視聴率をはじき出したトレンディドラマだが、今ではもはや再放送されることもない程度の役割を期待していたのでしょう。文学的価値は、道長にとってさほど重要ではなかったと思います。

「天皇に嫁いだ娘が実家出産をする場合、どのようなことに気を付けるべきか」のほうが大切だったでしょう。

というわけで、「紫式部日記」こそ子々孫々に伝えたかったのではないかと私は思います。

結局、正解は「どちらとも言えない」になるのでしょうかね。

 

 

大雑把な説明だったので、詳しくはまた後程