国道19号は賤母大橋で長野・岐阜県境を迎え、中津川市街地に下りるまで今までと同じような線形が続く。


今まで普通に19号を通行していて、この橋の存在には気づいていた。しかし関西方面を目指している以上ここで時間を使うのは少々難しかったし、入るのは簡単でも出るのが難しいとも思っていた。
事実、右左ともにカーブになっていて、交通量も多い上にスピードも結構出ているからタイミングを掴むのは少々大変だ。

しかし今回は旧道を路線式に巡っている。
長和町の一の橋、和田峠、南木曽町の吾妻橋(次の記事)と3ヶ所の訪問を終え、最後がここだ。冬が到来しつつあるから日の入りは早くなってきたが、何とか明るいうちに見ることができた。

麻生
橋の名称が刻まれた親柱は、この2文字しか読み取れない。雑草を少し掻き分けてみると、実はかさ上げによってこれより下はアスファルトの中に埋まってしまっているのだ。
先ほどの写真で見ると欄干と路面が不自然な感じになっている。

あさふばし
こちらの方は全体が読み取れる。麻生と書いて「あさふ」。これは歴史的仮名遣いで、現代仮名遣いに直すと「そう」となる。
ここからすぐのところにある道の駅「賤母」にある東山魁夷旅路館について紹介している中津川市のHP のなかでこんな記述がある。
この旅の途中、山口村(現在の中津川市山口)の賤母しずもの山林で大夕立に遇い、麻生あそうの村はずれの農家に駆け込んで、一夜の宿を求めました。そこで私は思いがけないほどの温かいもてなしを受けたのです。
(引用終わり)
文中に現れる「麻生(あそう)の村外れの農家」という記述は、まさにこの橋がある近辺を指しているはずだ。
現在この地区は現在岐阜県中津川市となっているが、嘗ては長野県山口村という場所だった。2005年2月に行われた「平成の大合併」で岐阜県中津川市に編入された。つまりこの場所は「長野県山口村麻生」という地名だったのである。

昭和八年十二月竣功
昭和8年を西暦に直せば1933年。平成の大合併の72年前にできた橋であり、当時に地名を橋の名称に冠したのだろう。

巡回シャトルバスのバス停がある。中津川市のHP中津川市のHP によればこのバスは事前予約制のコミュニティバスだが、車両は普通のタクシー車両を乗り合いで使用しているという。

この橋が19号の旧道であるという手掛かりが見つからない中、あるものを発見。
境界標には「建」と記されている。
つまり旧建設省管轄の道路と中部電力の土地の境界を示している。現在の本線ができるまでは、この道が19号であったという証拠の一つである。
旧橋の中津川方面に打たれた境界標は、南木曽側とは違うデザイン。銘板のような白い面にうっすらと何かが書いてある。
建設省
ただ、この2つの境界標の位置だと現在もこの橋が旧建設省から国土交通省の管轄であるということも言えてくる。しかし、もう1ヶ所大事な位置にも境界標が存在していたのである。

私のマイカーが停車しているのが旧麻生橋。2ヶ所の境界標は奥にあった。
しかし、現道と旧道を隔てる空き地にも建設省を示す「建」と記された境界標が存在していたのだ。現道が旧建設省時代に開通していたか否かは新橋梁の銘板を見ればすぐにわかるのだが、そうもいかなかった。

これが現道の新麻生橋。国土交通省中部地方整備局の年表 によると賤母防災というバイパスの完成が1987年のこと。
銘板を見ることのできなかったのにはわけがある。
写真で見ていただくとわかる通り、歩道がないのである。日曜日とはいえ、大型車の往来も多くスピードも出ている。カーブが連続する区間である上、幅員も狭いために歩行者の存在が危険を及ぼすと判断。塩尻方面の銘板を見るのは安全のために中止した。

国土交通省の資料によると、新麻生橋の架橋年は1966年とのこと。旧橋は1933年だから僅か30年で国道の座から降りたということだ。更には賤母防災の開通と20年近く差があることから、道の繋がりが気になってくるところだ。
そして、中津川市道路網図 によると旧麻生橋は現在「中津川市道7002号線」に指定されている。

前から気になっていた橋の詳細が漸くわかった。
短い橋だが、木曽高速となった次代の活躍ぶりを今なお見守っているのかもしれない。