へローです。
オリンピックも終わりましたね。
オリンピック、別にあっしは反対派でもなく、賛成派でもなく、
ただ何となく時間があれば、ちらっと観てしまう、ただのオッサンですが、
一部の競技の一部(というか一人)に後半オリンピック報道が、
「ジャック」されてしまうのは、まいったな、と。
前回もおんなじことを思った気が。
一時、80年代ぐらいかな、「全体主義」ってのは、
カッチョ悪いんだよ、なんて風潮が「やっと」共有されてきたか、
なんて錯覚をした覚えもあるんだけど、
最近のTV報道や息子の学校生活の話を聞くと、
やっぱ、皆さんもしか無自覚に「全体主義」が好きなのかな、
と思ってしまう。
ま、人の好き好きにあれこれ言うつもりはないんですがね。
小さい頃から人と合わせようとしても、
なんかズレてしまうあっしなんかから見るとですね、
また「ちまんない世の中」になるのかなあ、と一人でなげえちゃうんですわ。
あっしの世代で「生れて初めて」オリンピックをきちんと競技として
「認識」したのは、やっぱ1976年のモントリオールだと思うんですな。
あっしもそん時は小学校の高学年。
姉キ達が観ていた「サインはV」とかの影響で72年のミュンヘンオリンピック
とか、TVでやたらうるさかった札幌オリンピックとか、それまでは、
子供過ぎてて名前は知っててもよくわからんかったんよ。
そして76年のオリンピックのスターと言えば、
体操の、ルーマニアのナディア・コマネチ。
もう日本中が彼女にフィーバー(死語)していたような。
彼女のキュートさと金メダル3個の凄さに皆喝采を浴びせてた記憶が。
ま、あっしはまだ小学生でしたから、
「キュート」さはよくわかりませんでしたが、
その凄さは子供ながらTVでよく判ったわけ。
あの時代、まさにオリンピックと言えど、どこの国の人でも凄ければ、
自由に応援できた雰囲気があったんですな。
ニュースもどの番組も日の丸オンリーじゃなかったと思うし。
学校でも、先生から、そんなオリンピックの雰囲気を通して、
世界平和や国際感覚を学ぼう、みたいな「教え」を受けた記憶もある。
メダルを取る人、取れない人も、いろんな国の人がいろんな努力を
して、そんな「雰囲気」を俯瞰すること、俯瞰できるこそ、オリンピックの
意義みたいな。
翻って、モントリオールから40年近く経とうとしている今。
で、今はどうかと言うと、
何だか世界は判らないけど、日本はよく判りますわ。
日本選手の凄さ、頑張り、悔しさはよく判る。
特に、某競技の某選手の事なんか、メダル取れなくとも、
大して興味がなくても、もう、オリンピックは言うに及ばず、
「半生」まで判ってしまう。
凄い、なんか凄すぎないか。
その人の競技は、良く判らないのに、
その人の事はすっげー知ってるんだぜ。
もうどこのチャンネル回しても、その人の特集だ。
そして、皆、涙、涙、涙……感動、感動、感動……!
なんかねー、あっしには、違和感しか感じませんでしたよ。
ビートたけしは、「コマネチ」を揶揄したギャクで一世を風靡したけど、
もし誰かが、冗談でもギャグでも「その人」を揶揄したらどうなるんだろうか。
皆、冗談で、笑い飛ばせるかなあ、と。
なんて事も頭に浮かんでしまった次第。
時代はいつなん時も足を止める事なく進んでいく。
科学はその事をまさに身を持って教えてくれるけど、
人間と社会は、いつも進むとばかりは言えないかも。
そんな事も「オリンピックの感動」の裏に感じてしまった、と。
それがいいのか悪いのか。
あっしにはよくわかり千円(死語)。
ただ、なんか「生きづらさ」を感じてしまうんですわ。
なんか、なんか「子供の先々」を心配してしまうんですわ。
「気にし過ぎ」だったらええんですが。
またまた駄弁にて失礼。
感動のオリンピックに感謝をこめて。
ではでは。