今は遠い昔、大学院時代論文を書くために研究をしてたんですがね、
そこで一番最初に指導してくれた先生から言われた言葉が、
「まずは電車に乗れ!」って言葉。
実験の為の文献やらマニュアルやら、レシピやら兎に角機械、器具から方法やらで、研究当初はやる事多すぎ、準備する事多すぎでてんてこ舞い。
いちいち理解していないと中々身体が反応しない私に対して、
イラつき込められて言われた言葉がそれ。
つまり「指導される側」は、あれこれ初めから理屈に走らず、まずは「身体で覚えてから」、勉強しないさい、という事なんですな。
その後色々後輩たちを指導したりする中で、
「まずは電車に乗る」という意味の重要性を、今度は自分が説く側に回ったりもしたわけで。
でも、その言葉を説く側に回った時でも、まだ心の奥には、
「ちょっと違うよなー」って感情が燻っていたんですな。
「まずはやってみて」、「その後試行錯誤で学んでいけばよい」というのは、
あくまで一つの形であって、それがスタンダード化すると、
教える側にも教わる側にも「怠惰で怠慢な感情」が生れやすくなると思うから。
特に日本の社会では、学問の現場でさえ、時として「理屈にうるさい」のは、嫌煙され、敬遠されがちな雰囲気がある。
「オマエさー、ぐちゃぐちゃ理屈こねないで、自分のやることだけしたら」
となんて事を今まで何度言われた事か。
ま、私も同じ事を他人に言ってるという苦いメモリーもあるんですが。
ま、それは置いといて、と……。
一般の学校教育でも、「なぜ、そうなるか」、「なぜ、そうするのか」とかいう疑問を教科書以外の問題では追及をしない教育をしているし、またそんなことに疑問をはさむと教師から睨まれる恐れ大なのが、この社会。
例えば、ある小学校のある6年生のクラスである生徒が、
「先生、何で朝皆で歌を歌わなきゃいけないんですか? 納得できるように説明してください」
なんて質問をしたら、クラス担任の先生は何と答えるだろうか。
質問に答える、答えない以前に、このような質問の正当性をきちっと受け止めることのできる先生が何人いるだろうか。
私は何人もいない気がする。
そこには、「小学生は先生の指示通りに元気よく歌を歌う」、「歌うべき」、「歌わせるべき」、「歌わないといけない」等の確信が教育現場にあり、それ故に、
こんな変な質問をする生徒がいないのが普通という前提が日本の社会に「歴史的に長く」「共有されているからだ。
子供の個性が重要視される事が、私たちの子供の頃よりマスコミで声高にはなってはきているが、やはり子供達の教育現場では、
「先生や親の言う事を素直に従う子供が一番である」という事が一番共有されているのではないか。
そんな教育現場から「モノを積極的に考える子供」が果たして生まれるであろうか。
果たして「個性豊かな子供」が生まれるだろうか。
答は自明なような気がする。
「電車に乗ること」ばっか上手くでも、その子の人生を考えると果たしていいのか悪いのか……。
私的にはやはり、「考えながら、勉強しながら」より、もう一歩先に進めて、
「電車に乗る前に考え、勉強する事」も絶対に必要であるという立場を取りたい。
「慣れてから試行錯誤」ではなく、「慣れる前から試行錯誤」であることが、より深く目指すモノに早く近づける筈だろうからだ。
勿論、慣れる前から試行錯誤である事は、理解不足から誤解をより多く生みやすく「何も考えずに従う」よりも、最初はつまづく事も多いかもしれない。
それでも、「考えてモノを進めている」という自身の中の「積極性」に揺らぎはないのだ。それは、「素直に従っている」という他律性の中では決して得られない「積極性」に違いない。
自分の中の、自律的な積極性だけが結局は、安易に他人に頼らない、言わば、「自分力」を身につけることができると私は強く思うのだ。
またまた前置きが長くなってしまった。
テーマは「テコンドー」なのに、何もテコンドーの話をしてないやんけ!
という自分突っ込みを最後にして、
なんで私が「ナンチャッテ・テコンドー」を自分でやる羽目になかったか、
次回はその辺りの話を今まで以上に詳しく……ナンチャッテ。
では、また。