さてさて、世の中の「なんちゃって教育者」や「なんちゃって指導者」達は、安易に人の子供にノーグッドな「レッテル」を貼るのが好きな御人がいて、全くもって平和な世の中でよろしい、と日々感じながら、子育てに参加しているわけですが。
親一年生として長男を軌道に乗せるのに色々四苦八苦の「小学校時代」でした。
親としては、やっぱり自分の子供に、そここそ勉強が出来てほしい、そこそこ運動が出来てほしいと願うのが人情というもの。
そして比べちゃいけないと思いつつ、どうしてもよそ様のお子様の姿も気になってしまう。
そこで、こんな「揺れる親の心情」を治める為の一番のクスリが、
やはり「子供との信頼感」ではないか、と最近思う次第。
学校の教師や塾や習いごとの指導者からなんと評価されようが、
親が自分の子供を一番よくわかっている、特に子供のいいところを分かっているいう立場こそが、親子関係は勿論の事、子供の成長に一番大切なところではないか。
例えば、ウチの息子は、「欲がない」タイプ。ある意味そこは「おおらか」な性格でいいと思う。
本当に? いや、本当にそうだ。そう、絶対にそうだ。
と確信できるのなら、
スイミングスクールで学友に抜かれまくり、結局挫折しようが、
折角小学校3年でリレーの選手になったかと思えば、4年生はまたドンカメになろうとも、はたまた全国模試で迷走しようとも、
全然関係ない筈。いや、確かに結果だけで評価すれば、学校や試験で別にビリだろうが、ゼロ点だろうが、そんなものは人間の評価にさほど関係ないのは、人生や社会を大きな目で俯瞰すれば、自明の事。
ただし、「意欲」や「競争心」があまりに「ない」というのはどうだろうか。
そこを「おおらか」な一言で本当に補完できるかどうか、となると
話は別になる。
モノを自分で考え、自分で行動し、そして問題が生じれば、自分で解決できるようにする、という大人になる事が、子供の教育のある種のゴールならば、
「意欲がない」というのは、「やる気」がない事であるから、やはり問題となろう。
人間何事も「前を向く意思と意志」なくして、目的や目標を達成したり問題の解決には当れないからだ。これもまた自明なり。
最近、巷でよく聞くのが、「~できない人」という自分や他人をある意味病的な性格にカテゴライズして語る人達の存在。
医学的にもそれを裏付けようとしている専門家の話もよく聞くし、専門書もあれこれ出ているようだ。
しかし、私的にそれらをちらっと眺めてみれば、
それって本当に「科学なの?」という疑問がぬぐえないのだ。
勿論、全てが「嘘」に見えるわけじゃない。
科学的に病気と証明される病態もあるだろう。
だが、問題は、彼ら専門家が話す、書く内容に、「科学的に説明」された箇所があまりに少ない(ように私には見える)点なのだ。
科学的な考えというのは、実は、一般的日本人が不得手なものの一つである。
科学的な考えのベースは、一言でいうと、「普遍的な再現性があるかどうか」の一言に尽きる。
例えば、数多の「心霊現象」が科学的実証がされないのは、単に「普遍的な再現性がない」からである。
霊媒師が「私は霊が見えるけど、貴方達は見えない」というのでは、
とてもでじゃないが、普遍性がなく、「科学」にはなれないのだ。
「電気を使えば、世界中どこにいても、また誰であっても部屋を明るくすることができる」。
この「普遍的な再現性」が科学なのだ。
医者と病院が増えれば、病気が増えるのは、「医学界の常識」でもある。
「病気」は医学界で、医療の現場で、そして最終的には「社会的に認知と承認」を受けて始めて、「数」としてカウントされるシステムであるからだ。
私はたまたま専門は違うが、少々医学的知識があった。
昔の話で今は言われているがどうか知らないが、「診断はルーレットである」という医学的隠語を知っている位の知識はある。
普通の人が考えている以上に、また医学をかじりはじめた人間が考えいる以上に、ある種の症状があっても、「ノーマルバリエーション(病気ではない範囲)」が広いというのが医学界、言いかえれば「診断学」の現状なのだ。
そんなわけで、息子を小さい頃「すっとこどっこい」扱いをした、「すっとこどっこい」な先生達の意見に振り回されないですんだわけだ。
「ああ、そうか。貴方がたがやらないなら、私がやるさ。私の息子はけっして貴方がたが評価したような子供ではないからね」
という具合に。
もとい、医学的知識以前に、息子の周囲の、「プライベートで付き合う大人達」の息子への評価は高かった事も精神的な助けになっていた。
幼稚園や学校で、きちっと「既製服」を着こなせない子だっている。
で、それがどうしたというのだ、という意見だってある。
今、長男は中学生になって、やっと意欲が見えてきた。
部活でも勉強でもいろいろ工夫する面が見えてきた。
親は欲深いものだから、まだまだとは思う。
でも、ああ、小さい頃ああやって親子ですったもんだ、やった事は、
無駄じゃなかったんだな、とも思えて、そこはいい。
世の中には、「すっとどっこい」な教育者に、自分の子供を「すっとこどっこい」なレッテルを貼られて悩んでいる親御さんも少なくないと思う。
そんな周囲の声に安易に「~できない子」と決めないで、週とか月単位でなく、数年のスパンで子供と接して問題解決に当たられるのがよろしいかと。
「解決は全て、できる、と信じる事」から始まる筈。
「できない」と思って始める解決が、解決した事なんかあるのかどうか。
これもまた「普遍的」な事実では。
と、まだまだ駄弁は続きます。