ねじまき鳥はもういない①
会社が浜松町にあるため、ぼくは週5日山手線を半周する。
その34分間、ぼくは本を読むことにしている。
推理小説、純文学、エッセイ、等おもいつくまま手にしたものを
読むことにしている。
9月のある日、ぼくは本棚にあった村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を手にとった。
5年ぐらい前に一度読んだ本である。
なぜ、今、この時期にこの物語にひきよせられ、邂逅したのだろうか?
これは千年に一度あるかわからないぐらい暗示的であった。
ひとついえることは、小説は人を映す鏡であるということ。
ぼくは、、5年前読んだ本とはまるで違った物語をそこに見いだしていたのだ。
ぼくは、これからこの『ねじまき鳥クロニクル』という小説の感想や批評を述べるつもりはない。
何万語をついやし、何百回も字面を研磨して評論したところでいったい何の意味があるだろう。
それは真実ではない。
これはぼくの物語だ。
ぼくは、ぼくの物語をここに語るだけだ。
『ねじまき鳥クロニクル』に関して、多くの人が傑作と賞賛し、また多くの人が失敗作と評し、
難解な物語にさまざまな注釈がはりつけられたりするのを目にしてきた。
ぼくはもう評するつもりはない。
ぼくは、この物語の深みに投影され、その姿を写しとってゆく地道な作業をつづけるつもりである。
主人公オカダトオルを知ることは、ぼく自身をし知ることに他ならないのだ。
物語を読みおえたぼくの世界には、
地軸のねじをまくあの鳥は、もういない。
ぎぃぃぃっ、と鳴くあの声はもう聞こえない。