【美術】梅原龍三郎>林武 | PRアイディア直売所 ~作って売るから安い~

【美術】梅原龍三郎>林武

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若い頃、洋画家林武(はやしたけし)の作品が好きでよく眺めていたが、


こうやって歳をとって再び見つめなおすと、感動できなくなっていた。


やはり日本では梅原龍三郎の方がずうっと上だなあと。


林武の作品は確かに構図的と色彩には大胆かつ斬新なところがあり、


目を見張るものがあるが、


ボデッと絵の具の量を多用しただけのような気がしてきた。


なんとも私のメキキの力が著しく衰退してきたのかもしれない。


私のような、ど素人大衆が勝手に評論するのは自由ですが、


いやしくも文化勲章受章者だからねえ。


いや日本を代表する画家といってもおかしくない重鎮だ。


天国ではきっと不愉快な顔をされていると思う。


「お前にオレの作品のどこがわかるか」と。


私の嫌いなセザンヌから学んだ作風といわれています。


だとしたら、もうすこし「遊びの空間」を作ってほしかった。


あれほど若い頃は林武の作品にぞっこんだったのに


なぜこうなっちゃったのだろう。


自分でもわからない。


林武先生、すみません。


ただ構図第一主義の思想は脈々と生きており、そこへの共感は今でも変わりません。

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林 武 (1896.12.10-1975.6.23)

 

 林武は本名を武臣という。1896(明治29)年に東京の麹町に生まれた。父の甕臣は、代々つづく国学者として華族女学校で教鞭を執り、のちには著作に専念した。  

 

 時代のために不遇を強いられた明治の国学者のひとりだったが、矜持を保って、家計を顧みることがなかった。武は、母が経営する牛乳屋や洗濯屋を手伝いながら学校に通い、無理がたたって一時体をこわす。


  十代後半は、歯科医を目指して東京歯科医学校に籍を置いた。しかし、卒業にはいたらず20代の初めには、活動写真の絵看板を描いたり、「ペンキ絵」と称する安手の絵を売り歩いて生活費を稼いでいた。
 

 1919(大正8)年、23歳のとき、日本美術学校に入学し、石膏像の写生などに没頭するが、二年後には同校を退学した。この短い在学期間を除くと、林武は正規の美術教育を受けておらず、ほとんど独学で絵を描いた。


 しかし、退学した年、1921年の第8回ニ科展に出品し樗牛賞を得、翌年のニ科展ではニ科賞を受けて、華々しくデビューする。1923年、萬鉄五郎を中心にして円鳥会が結成されると、そこに参加した。


  おもなメンバーに前田寛治、児島善三郎、恩地孝四郎などがいる。そして円鳥会の何人かと語らい、それにほかの人びとを加えて、1926年には、「当時の画壇においては、最も精鋭であるという自信と自覚に燃えたって」、1930年協会に参加した。


 創立会員は、前田、木下孝則、里見勝蔵、佐伯祐三、児島善太郎で、林武は木下義謙、野口弥太郎とともに一月遅れて加わっている。


 このグループが半ば発展解消したものとして、1930(昭和5)年に、新しい油絵を志す青年画家たちが集まって独立美術協会が創立される。林武もその中心人物のひとりとして創立に加わった。以後、林は独立美術協会に依って、作品を発表し、実技指導、講演を行っていった。
 

1934年、38歳のときに遅ればせながらヨーロッパに出かける。パリに腰を据え、「コワヒューズ」などの作品にみられるようにピカソなどに触発された人体の表現を試みる一方、ヨーロッパ各国を旅行し、翌年には帰国した。
 

 太平洋戦争中も、疎開先でさまざまに試みられた構図の工夫は、戦争後になって開花したかのように「うつむき少女」(1946)や「梳る女」(1949)といった女性像の秀作を生みだしていった。1949年には「梳る女」で第一回毎日美術賞を受賞する。
 

 また1952年に東京芸術大学教授に就任し、1963年に退官するまで数多くの学生を指導し、油彩画の領域に活躍する何人もの画家を送りだした。そして1953年には、国立公園絵画展のために多くの画家に依頼された国立公園を描く作品のうち十和田湖を受け持ち、「十和田湖」を完成させる。
 

 1959年に日本芸術院賞を受賞。1960年から翌年にわたってフランスに滞在し、パリや南仏ヴァンスなどで制作する。1963年に東京芸術大学を定年退官。1967年に朝日文化賞、翌年には、文化勲章を受けた。
 

 一方、国学者であった父甕臣の跡を継ぐように、1971年には国語問題協議会の会長に就任し、著書『国語の建設』を刊行した。1975年に肝臓がんのため78歳で没している。


発想とアイディアを独自の視点から研究している【伝説のPR職人】ハスカです。私の一貫したスタンスは「あらゆるビジネスの根本は発想・アイデイアにある」。マスコミと読者を「ハッ」とさせ、「ソウ」だったのかとうならせる、「わがハッソウ(発想)術は永久に不滅です」。また、ハスカ式PRをひと言でいうなら「創作PR」の世界といっていいでしょう。古典PRというものがあるかどうか知りませんが、私のは既存手法とはまったく違う独自開発したユニークな独創的PRといえます。